「ありがたいこと」はどのやうにふえるのか
50日ほど前から玄関の下駄箱の上に鉢植ゑのプリムラを置いてゐる。3日に一度くらゐの水やりで、黄色の花がきれいに咲き続けてくれてゐる。
変はらない光景なのに、先日出がけにふと見ると、
「きれいだなあ」
と思つた。
そしてその瞬間、「アッ」と一つのことに気がついたのです。
「ありがたいことが増えるのは、それまでなかつたことが起こるやうになるのではない。それまで気づかなかつたありがたいことに気づくやうになるのだ」
玄関の光景は昨日までと何ら変はつてはゐない。それなのに、昨日まで特に意識しなかつた花の美しさに、今日は突然のやうに気がついた。
そして
「きれいに咲いてゐるなあ。ありがたいなあ」
と思つた。
それは、昨日までなかつた「ありがたいこと」が今日一つふえたといふことでせう。これはどういふことか。
花でも人でも、ほとんどは昨日と変はらないものに我々は囲まれてゐる。それら自体は「ありがたいもの」でも「ありがたくないもの」でもないのです。「ありがたい」とか「ありがたくない」とかは、私の意識の中だけにある。
ありがたいことは、それらの中に隠れてゐる。隠れてゐるので昨日まで気がつかなつたのに、今日初めて気がつけば、ありがたいことがその瞬間に一つふえる。この世はどうやら、さういふ仕組みになつてゐるのです。
今から十数年前、
「自分の年齢の2万倍ありがたうと唱へると、本当にありがたいことが起こるやうになる」
とある本で読んで、その真偽を確かめようと実践してみたことがある。(「ありがたう」の種はいかに育つか)
ところが、それを達成した直後、そのときの私にはどう贔屓目に見ても「ありがたくない」と思はれることが、2日続けて起こつた。それが起点となつて、「ありがたいとはどういふことか」といふ私なりの探求が始まつたのです。
十数年の間にさまざまな紆余曲折はあつたものの、今頃になつて、やつと腑に落ちるやうになつた。
「これまでなかつたやうなありがたいことが起こるのではない。さういふことが起こつてももちろんいゝが、別に起こる必要はない。ありがたいことに気づく頻度があがる。それだけで、自然にありがたいことはふえるのだ」
十数年前は騙されたやうに思つたりもしたのですが、さうではなかつた。本に書いてあることは100%正しかつたのです。
十数年かかつてどうしてこのことが腑に落ちたか。その間に、私の心が少しづつ「ありがたいこと」に気づける感覚を身につけてきたからに違ひない。
そのやうに心が変はつてきたのはやはり、「ありがたう」と唱へたからなのです。
ひと房のプリムラが黄色く咲いてくれてゐるだけで、ありがたい。
ワンパターンで作つた食事をおばあちやんが「ありがたい」と言つて食べてくれるだけで、ありがたい。
そんなふうにして、私の生活には「ありがたいこと」が着実にふえてゐるのです。
しかしおそらく、今の私がまだ気がついてゐない「ありがたいこと」が私の身近に五万とあるに違ひない。今でも「ありがたくない」と思つてゐることはあるが、それらの中にも「ありがたい」ことは隠れてゐる可能性がある。それを一つづつ見つけ出していくだけで、「ありがたいこと」は私の人生に無数にふえ続けるでせう。

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