自分を許したいのなら
「そこに行き着く」道は「そこにいる」ことだ。行きたい場所にいなさい。幸福になりたいか? では、幸福でいなさい。愛がほしいか? では愛になりなさい。 (『神との対話3』ニール・ドナルド・ウォルシュ) |
ニールとの長い対話のほぼ最終章で神がニールに与へる箴言です。どういふ意味でせうか。何だか分かりにくいですね。
そこに行きたければ、今ゐるところを出発し、そこに向かつて進まねばならない。ふつうにはさう考へます。ところが、そこに行きたいなら、その場所にゐなさいと神は言はれる。その場所にゐるなら、すでに行きたいと考へる必要もないではないか。
幸福も愛もさうですね。今幸福ではないから幸福になりたいと願ふ。今愛がないから愛がほしいと願ふ。我々はさう考へる。ところが神は、考へ方が我々とは反対のやうです。
どちらの考へがより妥当なのでせうか。
私なりに「許す」といふことで考へてみませう。
私になかなか許せない人がゐるとします。どうしたらその人を許せるでせうか。つまり、どうしたら「許し」といふところへ行き着くことができるかといふことです。
「許せない」といふ今の地点から「許せる」といふゴールまで、どのやうにすれば進んで行くことができるか。何かをしながら、少しづつ徐々に徐々に許せるやうになつて行くのでせうか。私の心がどのやうに変はれば、昨日よりも今日がより許せるやうになつたと言へるのでせうか。
「私は今日から彼を許す」
と心の中で自分に言ひ聞かせれば許せるかと言へば、心で心を変へることはできるやうに思へない。
心は自力で「許す」といふ場所まで行くことができない。
それなら、体が先にそこへ行き、体に
「私はもう許した場所にゐる。心よ、あなたも早くこゝまで来なさい」
と宣言させるしかないのではないか。
体が先にそこに行くとは、あたかもすでに許した人のやうに体で振る舞ふといふことです。許した人のやうに親切に接する。温かい言葉をかけ、できるだけ良いものをあげる。それがすなわち「許す」といふことではないでせうか。
「いや、それはただ許した振りをしてゐるだけで、心から許したわけではないから、本当に許したとは言へない」
と批判されるかもしれない。
しかしさう批判する人は、それなら、いつになつたら心から許せるやうになるのか。それではいつまでも願ふ場所には行き着けないやうな気がする。
我々が体を持つてゐるのは、実はとてもありがたい。その体で心より先に目的地に到達することが可能なのです。
体には「許す」とか「許さない」などといふ概念はない。あるのは「何かをするか、しないか」だけなのです。だから体でそれをすれば、そのときすでに私は行きたい場所に行き着いてゐることになりはしまいか。
あなたは幸福になりたいか。さうであれば、幸福であるやうに体で幸福である人のやうに生きなさい。それが幸福な人の秘密である。
あなたは愛がほしいか。さうであれば、愛がある人のやうに振る舞ひなさい。それが愛のある人の秘密である。
ところで、誰か他人を許すことよりもつとむつかしいことがある。自分を許すことです。他人を許せたとしても、自分は許せない。我々は意外とこの陥穽に落ちてゐるのではないかといふ気がする。意識の表面に現れないので、うつかり気がつかないのです。
あなたは自分を許したいのか。それなら、自分を許した人のやうに生きなさい。
さて、それはどんな生き方なのだらうか。

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