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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

「天寿」はあるか

2023/01/15
生活日記 0
天寿


家の廊下の柱に取り付けている地元の有線通信網の端末から、ときおりお悔やみ放送が流れる。90過ぎの男性もゐれば、60代の女性もゐる。どんな人にもそれぞれの人生があるには違ひなく、寿命の長短だけでは判断できないその人なりの哀歓があるものでせう。

私の妻は2人の子どもを生んだあと、平均寿命の半分あたりでこの世を去つた。これについては私自身、長い間苦悶したのです。

いくらガンだとしても、治療して長生きする人もゐる。治療もむなしく妻が早々に逝つたのは、治療の方法がまづかつたのか。それ以前の問題で、もつと早く異常に気がついてゐれば、こんなことにならなかつたかもしれない。私も夫としてあまりに鈍感だつたと悔やまれる。

そんなことでこれほど早く逝けば、本人も無念だらうし、残つた私もつらい。幼い子どもたちも可哀さうだ。

そんなふうに若い死の理由も分からず、その死を受け入れることもむつかしく、悶々としたのです。しかし最近、「天寿」といふことを考へるやうになつて、すこし気持ちに変化を感じるやうになつた。

この世での人生の長さを「寿命」と言ひ、多くの人の長さを均したものを「平均寿命」と言ふ。今の日本なら、男性が約81歳、女性が約88歳といふところでせう。

信長は「人間50年」と言ひ、それは戦後間もなくのころまでほとんど変はらなかつたが、その後ずんずん伸びて、あつといふ間に「人生80年」となつた。そして今や「人生100年時代」とまで言はれる。100年もたたないうちに人生が2倍に伸びたのです。

ところが、人生の長さが2倍になれば人生の幸福も2倍になるかと言へば、話はさう単純ではない。こゝに「天寿」といふ考へを持ち込めば、見える景色はずいぶん違つてきます。

「天寿」とは「天が定めた寿命」と解すればいゝでせうか。一部には「自分の寿命は自分が決めて生まれてくる」と言ふ人もゐます。真偽のほどは定かでない。

現実には、100歳まで生きれば「天寿を全うしたね」と、その寿命を穏やかに受け入れやすい。しかし20歳で交通事故に遭つて死ねば、これはとても「天寿」とは思へず、悔やんでも悔やみきれない。

しかし本当に「天寿」といふ考へを入れるなら、その長短を云々する意味はあまりないでせう。

20歳で死ぬ人も100歳で死ぬ人も、予定通りに生きて予定通りに死ぬのです。予定通りに人生の課題が全うされたのなら、20歳で死んでも何の支障もないといふことになる。

問題は、本当に天寿といふものがあるかどうかです。いや、といふより、「天寿」を肯定するか否定するかで人生に対する見方がどう違つてくるか。それが肝心なところだと思はれます。

見方のどこがどう違つてくるでせうか。我々は自分の人生をどこまでコントロールできるかといふ、その観点が違つてきます。

「天寿」はない、「寿命」があるだけだと考へれば、20歳での不慮の事故死は無念でしかない。「あのときあの道を走らなければ、死なないですんだはずなのに」といふ後悔が消えないでせう。

これはつまり、自分の人生を私はコントロールできるといふ考へです。そしてコントロールに失敗したので悔やまれる。

一方、「寿命」は「天寿」によつて決まると考へれば、20歳の死も不可抗力です。自分の意志で自分の死を100%コントロールすることはできないといふ考へになります。

自分の意志ももちろん無力ではないが、それ以上に大きな力の作用が自分の人生に働いてゐる。その力を受け入れざるを得ない。「天寿」にはさういふ感覚があります。

少し違ふ見方をすれば、20歳で死ぬ人は、その時点で自分の人生に見切りをつけてゐたのかもしれない。表面意識ではもちろんそんなことはないでせう。しかし自分でも気がつかない深層意識では、そのときを自分の人生の清算をするときと前々から目論んでゐたかもしれない。

もちろんこれは頭(表面意識)で考へて答への出る話ではない。あくまでも私の仮説、しかも確固たる根拠もない仮説です。ただこのやうに考へてみると、妻の死についてもこれまで見えなかつたものが見えてくるやうな気がするのです。

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