悪善変換装置
「天上天下唯我独尊」
といふ宣言は、お釈迦様の悟りの境地についての一つの表現だらうと推察します。
どういふ境地だらうとあれこれ想像はしてみるものの、実感も、それ以上の説明もできない。もちろんお釈迦様自身、そんなことは期待しておられないでせう。
悟りは悟った者のみの絶対の所有である。厳格にいえば、他の何びとの証認をも必要としない。 |
さういふ意味のことを禅学者鈴木大拙は言つてゐます。
「あなた、本当に悟つてゐるの?」
と訊いても、確証のしやうがない。
反対に
「身心一体となつた自信のある者、手を挙げて」
と言はれても、真面目な人は躊躇するでせう。
心身一体が一体どんな境地か分からないし、分からないといふことは多分まだその境地に至つてゐないのだらうと考へるしかない。
かういふ高い境地は一つの憧れとしてあつたとしても、あまりに漠然としてゐます。大体の目星をつけた上で、どうやつて少しづつでもそこに近づけるか。さう考へてゐたとき、一つ思ひついたことがあります。
「自分の中にどんな悪いものが入つてきたとしても、自分からは絶対に善いものしか出さない」
さう決意するのです。
日々の暮らしの中で、つらいことはいろいろありますね。
- 願ひがあるが、思ひ通りにいかない。
- 誰かからきついことを言はれた。
- 気持ちだけは若くても、体は否応なしに衰へを覚える。
さういふ諸々が、私に入つてくる「悪いもの」です。しかしそれらを絶対そのまゝでは出さない。さう心に定めるのです。
朝、嫌なことがあつた。しかし出かけるときも勤め先でも、決してその嫌なことを顔に出さない。言葉にも出さない。
環境をののしらない。人を批判しない。人をさげすむことも、逆に羨むこともしない。表情はつねに穏やかで、言葉は肯定的に徹する。
そんな本音を糊塗するやうな、良い子ぶつた態度、ストレスが溜まつてしやうがないでせう。さう言はれるかもしれない。
ストレスは溜まつて結構。ストレスが溜まるなら、大いに溜める。それでも自分の中で「悪いこと」を「善いこと」に変換する核融合を続けるのです。
何が「悪いこと」で何が「善いこと」かは、実はむつかしい。しかし取り敢へず、「我欲で心地悪いこと」を「悪いこと」、「我欲がなく心地良いこと」を「善いこと」としませう。
この世の中で、一体どんな装置が「悪いこと」を「善いこと」に変換してくれるでせうか。誰か偉い人が? 法律が? 社会制度が?
それも少しは効き目があるかもしれない。しかしそんなものより、一番身近で一番効果的な装置が、他ならぬ自分自身でせう。
自分の中で「悪いこと」を「善いこと」に変へて外に出す。さうすれば、植物が大気中の二酸化炭素を吸収して酸素を吐き出し、そのお蔭であらゆる動物が生息できるやうに、確実に世の中が生きやすくなるでせう。
さう考へれば、自分がその装置となる心定めをすることが「悟り」への入り口であり、それを厳格に実践できれば、それがほとんど「悟り」と言つてもいゝくらゐかもしれない。

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