動的平衡とメロディー生命論
分子生物学者の福岡伸一博士は生命を
「動的平衡」
と表現する。
数学者の故岡潔博士は生命を
「メロディー」
と表現する。
福岡さんは、生物学を土台とした哲学者。岡先生は、数学を土台とした宗教者。私にはさういふイメージが浮かびます。
福岡さんの言ふ「動的平衡」とはどういふことか。
2つの変化の過程が互ひに逆向きに、しかも同じ速度で進行するとき、系全体としては時間変化せず平衡状態を保つてゐる。動いてゐるのに止まつてゐるやうに見える。これを「動的平衡」といふのです。
生命といふのはエントロピー増大の法則に抗つてそれ自体を維持するために「動的平衡」を作り出さうとする。具体的に言へば、細胞はそのまゝでは時間とともに劣化し老朽化して、いづれ崩壊するから、それを「先回り」して、細胞自ら破壊しつゝ再生する。
この破壊と再生といふ逆向きの過程が同時並行的に進行するので、生命の本質を
「動的平衡」
と福岡さんは呼ぶわけです。
この説明は論理的で筋立てがきつちりしてゐるので、分かりやすい気がする。それで福岡さんは「科学的哲学者」といふ感じがするのです。
それに対して岡先生の生命論は、「動的平衡」論よりもはるかにふわつとした感じです。例へば、こんなふうに説明される。
本当は時空の中にメロディーがあるのではなく、メロディーの中に時空があるといえる。… このメロディーが生命なのだから、生命は肉体が滅びたりまたそれができたりといった時空のわく内の出来事とは全く無関係に存在し続けるものなのである。 (『春風夏雨』岡潔) |
メロディーが生命だとすれば、メロディーの中に時空があるとは、生命があつてこそ時空もあるといふことでせう。ふつうの考へとは真逆のやうに思はれます。
ふつうは、まづこの世には時空があつて、その中で何らかの切つ掛けで、ある特定のとき、特定の場所に生命が誕生した。時空は生命のあるなしに関係なく、無限の昔から永劫の未来まで存在し続ける。そんなふうに考へます。
しかし岡先生の考へでは、メロディーは元々時空のない世界に遍満してゐる。その中に個別の存在者が現れることによつて時空も生まれるといふわけです。
個別の存在者としての「私」。これは一つの楽器に喩へられます。
例へば、バイオリンならそれ独特の音色を奏でる。太鼓もまたそれ独自の音を出す。それらはそれ独自の機能によつて、まつたく違ふ音色を出すやうに見えながら、その実、大元は一つのメロディーなのです。元のメロディーがなければどんな楽器も音を出すことはできないし、それぞれが違ふ音色を出すとしても、それは元のメロディーの表現の違ひに過ぎない。
かういふ説明はあまりに茫洋とし過ぎてゐて、掴みどころがないですね。科学者の説明のやうではない。「数学的宗教者」と呼ぶ所以です。しかしさうでありながらも、何となく「さうかもしれない。さうであるといゝなあ」といふ気がするのもまた確かです。
我々は科学的に生命を探求しようとすれば、細胞を仕組みを調べ、遺伝子の働きを解明する方向に行く。それで未知だつたことが分かれば、それだけ生命の謎が解けたやうな気になり、このまゝ進めばいつか生命の究極の謎も解けるに違ひないと思ひ込む。しかしそれは多分錯覚でせう。
福岡さんの「動的平衡」は、エントロピー増大の法則に抗ふ生命の神秘的な機序を巧みに説明して見せたものの、しかしそれでもまだ生命のほんの入り口に立つたといふほどのことに見える。岡先生もメロディーと言ひながら、メロディーそのものについては深く説明されない。
私は生命の永遠性を信じる者ですが、しかし実際のところ、その生命が一体何なのか、今生きてゐるとはどういふことなのか、まだあまりにもよく分かつてゐないのです。

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