「観の目」で人生を観る
日本の代表的剣豪である宮本武蔵。彼は何かを「みる」において二通りあると体得してゐたやうです。
一つは「見る」。もう一つが「観る」です。
例へば、剣を持つて立ち会ふとき、
「観(かん)の目は強く、見(けん)の目は弱くみるべし」
と言つてゐます。
「見の目」とは通常の目の働きです。立ち合ひおいては、相手の動きがあゝだかうだと分析的、知的に把握する。さういふ見方です。
一方の「観の目」は相手を全体的に直覚する目です。
武蔵の言ひ方を借りれば、
「敵合近づくとも、いか程も遠く見る目」
です。
相手が近づけば、「見の目」はその近寄つた相手に合はせて焦点を近づけるでせう。ところが「観の目」は相手が近づいてもそれに焦点を合はせず、遠くを見たまゝである。
立ち合ひおいては、かういふ「観の目」を主体にし、「見の目」は抑へたほうが有利である。これが、武蔵が実践から会得した勝つための極意なのです。
なぜ、そのほうが有利なのか。
相手の動きは微細にして総合的です。動くのは剣だけではない。腕も動けば、足も動く。息遣ひも変はる。さらには風の吹き具合や陽の差しかたも刻々に変化する。これらが総合されて相手は撃ちかかつてくるのです。
それに対応するのに「見の目」では到底間に合はない。「見の目」はある一点に焦点を合はせ、その動きを分析しようとするので、瞬時の動きに負けてしまふのです。
「観の目」は一点に焦点を合はせない。相手の動きから、その相手を取り巻く周りの変化まで、それらすべてを全体的に「見るともなしに観てゐる」。これを「直観」と呼んでもいゝでせう。
武蔵はこの「観の目」を駆使することによつて数々の果し合ひに全勝してきた。さう言つてよささうです。
こんにち我々が剣を構へて果し合ひをするなどといふことはないものの、自分の人生をみるにおいて、この「見と観」二通りの見方は思案する価値が十分にあると思ふ。
例へば、
「私はかうしたらあゝなると思ってゐたのに、あゝならなかつた」
と思ふことがあるとします。
これは「今」の状態を「見て」ゐるのです。もし「今」の状態を「観れ」ば、どうなるでせうか。
「今はかうだが、あとではどうなるか分からない」
と思へるでせう。
つまり「見の目」は「今」といふ「空間」だけを見てゐる。そこには「時間」がない。
それに対して、「観の目」は「今」を「時間」の流れの中で、全体的に観る。「観の目」には「時間」の要素が入るのです。
「昔あんなことをしたから、今かうなつてゐる」
とは、我々がよくする後悔のかたちです。
それは「昔の行為」といふ「空間」と「今の状態」といふ「空間」とを「因果律」で結びつけた考へ方だと言へる。二つの「空間」はそれぞれ独立したものであるのに、それらをある特定の法則で関連づけようとするものです。
しかし我々の人生といふのは、そんなもので納得できるほど単純なものでせうか。
我々の人生とは、昔から今まで途切れなく流れる、一つの全体的な流れだと見ればどうでせう。「昔のあれのせいで、今のこれがない」とも言へるが、同時に「昔のあれのせいで、今のこれがある」とも言へるかもしれない。
「見の目」で分析できるただ一つの「因果律」くらゐではとても解けない複雑系。それが我々の人生だと言へるのではないか。
だから、部分を分析的に見る「見の目」を弱くし、全体を「いか程も遠く観る目」を強くする。剣豪が命を張つて会得した智慧です。

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