自分の記事に祝杯
わたしには何人か小説家の知人がいるが、彼らに話を聞くと、一様に「小説家は頭の中で見えるものを書く」と言う。随筆の「見知ったこと(事象)を考えて(心象)書く」というのとは根本的に違う脳の働きだ。彼らの頭の中では映画のようなものが上映され、それを文字に起こしているのだ。 (『読みたいことを、書けばいい。』田中泰延) |
漫画家を志望し、今では小説を2冊出版した息子にも確かめてみたところ、どうやらこれは本当らしい。漫画のほうがより直接的だと思ふが、この手の創作家は頭の中に映像が浮かぶやうです。それを絵なり文字に起こす。それで作品ができ上つてくるのです。
私には小説が書けない。頭の中に映像が見えないのです。それで書けるのは、随筆ばかりとなる。このブログの記事も随筆です。
随筆とは何か。
田中氏によれば、
「事象と心象が交わるところに生まれる文章」
が随筆です。
「事象」とは、この世のあらゆるモノ、コト、ヒト。それに触れて心が動き、書きたい気持ちが生まれる。それが「心象」です。
小説のもとは作家の頭の中にあるものだが、随筆には必ず自分の外側の「事象」がなくてはならない。それに触発されて何らかの感想や考へが浮かぶ。それを文字にしてみるところに随筆が生まれるといふわけです。
そのやうに随筆を定義してみると、現今ネット上に現れてゐる文章の9割方は随筆と言つていゝ。その随筆にも、よく読まれるものとさうでないものとがある。どうしたら読まれる随筆が書けるか。それを指南しようといふのが本書です。
ところが本書の指南はちよつと風変はりで、
「そんな都合のいゝテクニックなどは、ない」
といふのが結論なのです。
そんな本を1,500円で売らうといふのは、どういふ了見か。
もちろん、いくつかの基本的なテクニック(といふより書く際の心がけ)は書いてある。しかしその核心はタイトルの通り「自分が読みたいことを書け」といふものなのです。
「なんだ、それ? そんなものは子どもでも書ける」
と、一瞬思ふでせう。
しかしよく見ると、「自分が書きたいことを書け」と言つてゐるのではない。「読みたいことを書け」と言つてゐるのです。
自分の随筆の最初の読み手は、いつでも間違ひなく自分自身です。その自分が読んで面白いと感じないものを、他人が読んで面白く読んでくれるか。読むはずがない。
だから田中氏は
「書くときにターゲットを想定するな」
と言ふのです。
ターゲットを想定すれば、無意識の裡にもそのターゲットを意識した書き方をするやうになる。それくらゐならむしろ、自分自身をターゲットにした方がいゝ。
田中氏は広告会社電通で20年あまりコピーライターを務めた人です。その仕事は間違ひなく、ターゲットが誰かを明確にしないとうまくいかない仕事でせう。しかしその仕事でさへ(その仕事だからこそ?)まづ第一に自分が面白がる作品を目指す必要がある。
一見意外だが、よく考へるとまともな話です。
私もこのブログで月に20本くらゐの記事を書いてゐる。相当な時間を投入してゐる。どうしても筋立てがうまくいかず、うんうん唸ることも再三ではない。
そこまでして、なぜ書くか。
言はれてみると、「書きたいことを書いてゐる」記事が結構あるなと思ふ。それでもときどき、「自分でも何度も読み返したい」記事が書けるときがある。さういふときは至福です。一人で美味しい珈琲を淹れて一人で祝杯をあげる。
さて、今日の記事に何人のネットサーファーが足を止めるか。不遜にも「誰かの頭にギアを入れることを書ければ」などと思ふこともあるが、滅多にそんなことはあるまい。まあ、なくてもいゝ。

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