人事を尽くして天命を待たない
ある人と話してゐて、
「人事を尽くして天命を待つ」
といふフレーズを久しぶりに聞いた。
「こんないゝ諺があつたんだなあ」
と改めて思ふ。
調べてみると、この諺は南宋時代の儒学者の胡寅(こいん1098~1156)の言葉らしい。
自分としてできる限りの力を尽くし、それ以上のこと、あるいはその結果は天に任せる。人間として最大限の努力をすることを勧め、結果までは主管しないやうにする。良い心がけのやうに響きます。
この諺は言ふまでもなく人間の側の姿勢を指摘した言葉でせうが、あれこれ考へてゐる内に、
「神もさうだらうか?」
といふ疑問が浮かんできたのです。
神は自ら構想を立て、持てるエネルギーの100%以上を投入してこの宇宙を創造した。そして最後に自らのかたちに似せて人間を造つた。ところがこれは創造全体の95%で、残る5%がある。
それが「人間の責任分担」と呼ばれるものです。
神は自分の力を尽くして自分の分担を果たした。あとは人間が彼自身の分担を果たすかどうか。それを待つ立場だつたと言へます。
「天事を尽くして人命を待つ」
とでも言つたらいゝでせうか。
ところが結果的に、人命は神が願ふとおりにいかなかつた。このときの神の気持ちはどうであつたらうか。
「私は自分のすべきことをすべてやり尽くしたのに、どうして人間は私が願ふとおりにできないのだ?」
そんなふうに思つたとは、私には思はれない。
原理的には神の95%と人間の5%が分かれてゐるやうに言はれるものの、神の心中においては「人命」は「天事」の中に包摂されてゐる。さういふ気がします。つまり、人間がその責任を果たすところまでが「天事」すなはち神の責任分担なのです。
さうだとすると、
「天事を尽くしたら、人命は待たない」
といふことになる。
そして、これを我々人間の側に移して考へれば、
「人事を尽くして、天命は待たない」
といふことになるでせう。
人事を尽くすことがすべてです。それができれば、それ自体が天命だと言つていゝ。
「天命を待つ」
と言へば、それは自分が成した「人事」の上に、何か神がプラスしてより高い結果をもたらされることを「期待」するやうな響きがあります。
「神のプラス」とは「神の恩恵」と言へるかもしれない。それを期待することは何も悪いことではないのではないかとも思へる。しかし「期待」といふのは、意外と厄介なものなのです。
例へば、もし神が人間の責任分担に神なりに期待をかけてゐたとすれば、それが叶はなかつたとき、
「裏切られた!」
といふ失望と恨みが生まれるでせう。
だから、神は人間に(無闇な)期待をしなかつた。それよりも自分の為すべきこと(天事)に集中した。そしてその神事の中に人間の責任分担も含める覚悟をされた。
さうすれば、人間が果たすも果たさないも神の問題となり、人間が果たすまで神は「天事」として担当していくことができるでせう。そこには失望も恨みも(まつたくないとは言へないとしても)支配的な力を持たない。
我々人間も「期待しない生き方」といふものを改めて考えてみるのは、無駄なことではないと思ふ。

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