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ロゴスの山のその向かう

kitasendo
ロゴスの山

分子生物学者の福岡伸一さんは、少年のころ虫捕りに熱中してゐた。虫と自然の魅力に憑りつかれており、長じて生物学者の道に進んだのです。

福岡さんの研究の道を登山に譬へるなら、長らく「ロゴスの山」を登り続けた。生物とは文字通り「生きてゐるもの」だが、研究ではそれを切り刻み、DNAといふ微小なものを顕微鏡で観察する。細胞は元来ほゞ透明なものだが、観察しやすいやうに人工的に彩色したりもする。

そんなふうに「ロゴスの山」をかなり登り詰めると、
「何かおかしい」
といふ気がしてくる。

「自分が研究してゐるのは生物ではなく、死んだ『モノ』ではないのか?」

ロゴスは自然を研究しやすいやうに分節化し、抽象化する。さうしなければ研究できないからだが、それでは対象は死んでしまふ。

そんなことを考へるやうになると、「ロゴスの山」の向かうに別の山が見え始める。それは「ピュシスの山」です。

その山に登り直せば今の研究の行き詰まりを解決できる手立てが見つかるかもしれない。さう思つて、新しい登山が始まつた。

「ピュシスの山」の登山で生まれたのが
「動的平衡」
といふ、生物(生命)に対する新しい観点です。

ロゴス的な研究では、生物とは言ひながらも、「死んだ『モノ』」ばかりを扱つてゐる。それに対してピュシス的な研究になると、「生きてゐる『コト』」を扱ふやうになるのです。

福岡さんは、「モノ」とは存在だが、「コト」とは実在だと言ふ。例へば、細胞とかDNAなどは「モノ」。それに対して生命自体は「コト」。生命は特定の「モノ」ではなく、一種の「流れ」なのです。

これまでの科学は「コト」である生命を「モノ」で解明、説明しようとしてきた。

それで、
「生命とは、自己の複製を作るものである」
「生命とは、代謝を行ふものである」

などといふ定義が生まれたのです。

しかし「ピュシスの山」を登つてみると、生命とはそんな定義で把握しきれるものではないと思はれてくる。「モノ」としては把握できないのです。

「モノ」と「コト」の間にある違ひとは、一体何でせうか。

それはどうも
「時間のある、なし」
のやうに思はれる。

これまでの生物学は生きたものを死んだ状態にして研究してきた。そこには「時間」がない。もう少し厳密に言へば、「時間といふ概念」がないのです。これまでの生物学(あるいはほとんどの科学)は「時間」を消すことによつて研究を進めてきたとも言へます。

しかし実際の生命は、変転してやまない「流れ」なのです。それが「コト」といふ意味です。「出来事」の「コト」です。

さう考へると、生命といふ「流れ」があつてこそ、「時間」もある。「モノ」には「時間」がなく、「コト」にこそ「時間」があるのです。

そんなことなら、福岡さんは初めから「ピュシスの山」を登ればよかつたのに。さう思はれます。しかし実際には、なかなかさうはいかないのです。

今の世の中では、科学も思想も「ロゴス」が圧倒的な力を持つてゐる。現実のどんな事象も「コト」なのに、流れてゐるものは扱ひにくいから、流れから取り出して「モノ」にし、それを細分化、抽象化して分析する。さういふやり方に慣れてゐるのです。

一例を挙げれば、有害な細菌が現れると、その作用を防ぐために抗生物質を開発する。細菌といふ「モノ」に「抗生物質」といふ「モノ」で対抗しようとするわけです。

その作用だけを見れば効くやうに思はれる。しかし細菌は「モノ」ではなく、生命を持つて流れていく「コト」なのです。だから福岡さんの言ふ「動的平衡」の原理をもつて、新しい環境で安定するやうに変化し、その結果元の抗生物質は効かなくなる。それで人間にとつては前よりももつと危険な状態になることもあり得るのです。

まあ世の中全体がかういふことだから、優秀で誠実な研究者であつても、最初は「ロゴスの山」しか見えない。そこでそれが唯一の山だと思つて、登り始める。

大半の研究者には、最後まで「ロゴスの山」しか見えないかもしれない。しかしごくまれに、福岡さんのやうに「ロゴスの山」の向かうに「ピュシスの山」を見出す人がゐる。

かういふ人がもつと現れてくると、我々の蒙もだんだんと啓かれてくるのではないかと思ふ。

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