続・「ありがたう」の種はいかに育つか
100万回の「ありがたう」の翌日と翌々日に立てつづけに起こつた出来事。悲劇的ではあるが、喜劇的とも言へさうなこれらは、どうして起こつたのか。
これまで私なりに思ひついた解釈は、大体かういふことです。
この世の出来事には元々「ありがたい」も「ありがたくない」もない。それを自分の基準ではなく、あるがまゝに受け止めれば、基本的にはすべてが「ありがたい」。しかし実際には、自分の基準に照らし合はせて見るので、その基準に合ふものは「ありがたく」なり、合はないものは「ありがたくなく」なる。
ところがふだん我々は、自分がさういふ自分なりの基準をもつてゐることをはつきりと自覚しない。それでできごとそれ自体に、元々「ありがたい」ことと「ありがたくない」ことの区別があると思つてゐる。
それなら、あらゆることを「ありがたい」こととして受け止めるには、自分なりの基準を捨てなくてはいけない。しかし自分でも意識しないものを捨てるのは難しい。そこで神が一計を案じる。
「ありがたいことが起こるぞ」と言つて期待させておいて、「ありがたくない」と本人が思ふことを起こして見せる。すると、本人は虚を突かれて驚く。そしてそのとき、二つの選択肢があり得る。
一つは、
「どうしてこんな約束に反することが起こるのか」
と言つて、相手や神を恨むか、運命を呪ふ。これはあまり良い選択とは言へない。
もう一つは、
「これは神が私に何かを悟れといふ信号を送つてゐるのか」
と疑つてみる。
この選択をすると、それでは一体どんな信号なのかと考へる、次の段階が開けてくる。そして私の場合はこちらを選んで、その信号を「自分なりの基準を手放せ」といふふうに解釈したのです。
これは自分なりの解釈だから、正しいか間違つてゐるか、判断はできない。ただこの解釈に、私はかなり納得してきたのです。
ところで今回、おばあちやんの「ありがたう」について考へながら、今までにはなかつた別の解釈が浮かんできたのです。どういふ解釈か。
2日続けて起こつた出来事は、ある意味で私の期待した通りだつた。つまり、期待したことがその如くに起こつたのです。
毎日「ありがたう」を唱へながら、私の中には、
「ありがたいとは一体どういふことか」
についての明確な理解がなかつた。
そして、
「どういふことが起こるか、見てみよう」
といふ観察者のやうな立場だつた。
それで「ありがたい」かどうかが曖昧なことが起こつたのです。曖昧だつたので、それが起こつたあとで
「これは『ありがたい』ことか、そうでないか」
といふことをはつきりさせるべきプロセスが必要になつた。
逆に言へば、もし私が初めから「ありがたいとはどういふことか」をはつきり知つてゐたなら、「ありがたい」ことが起こつてゐたのかもしれない。
とは言へ、どういふプロセスを経るにせよ、結局は
「本当に『ありがたい』とはどういふことか」
をはつきりさせる方向へと進んで行くやうになつてゐる。
これは間違ひないだらうと思ひます。

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