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「ありがたう」の種はいかに育つか

kitasendo
小林め

おばあちやんの自宅介護を始めて、もうかれこれ3年近くになります。なかなか楽なことではない。

緑内障が進んでほぼ失明したので、食事の世話も下の世話もふえる。2年前に脳梗塞で倒れたことも、それに拍車をかける。

しかしそれでもラッキーだなと思ふことがあります。おばあちやんはとにかく感謝の多い人なのです。しかも認知が進むにつれて、それはふえてゐるやうな気がする。

ほぼルーティンの食事にもかかはらず、毎回「おいしい」「ありがたう」と言ひながら食べてくれる。どんなにおいしい料理を食べる人でも、これほど一口ごとに感謝と喜びを表す人は滅多にいまいと思ふほどです。

食事のときばかりではない。オムツを替へるのに手こずつても、替えへたあとはしばしば「ありがとうね」と言つてくれるのです。おばあちやんのこの途切れない「ありがたう」のお蔭で、介護する私の精神的負担がどれほど軽くなつてゐるか。それはもう計り知れない。

どうしておばあちやんはこれほど「ありがたう」の人になつたのか。昔を振り返つてみると、元々素直な人だつた。人の悪口もほとんど言はない。旦那に惚れ込んでゐて、夫婦仲も羨ましいくらゐ良かつた。

さういふ人が歳を取り、ある程度認知症にもなれば、こんなふうに「ありがたう」の人になるのかもしれない。しかしこのことに思ひを巡らしてゐるとき、ふいに脳裏に浮かんだ思ひがあるのです。そのことを書いてみます。

今からもう15年以上も前のことです。小林正観といふ人の本に出会つた。そこに「ありがたう」について、こんなことが書いてあつたのです。

「ありがたう」の5文字ほどこの宇宙で素晴らしい響きはない。これを自分の年齢の1万倍唱へると、「ありがたう」と言はざるを得ないやうなことが起こり、2万倍唱へると信じられないやうなことが起こる。

いかにも「とんでもスピリチュアル」といふ感じですが、うぶな私は「それなら試しに100万回唱へてみよう」と思ひ立つたのです。そして多分それから3ヶ月あまり、明けても暮れても「ありがたう」を憑りつかれたやうに唱へ続けた。

我ながら、よくやつたものだと思ふ。今もう1回やつてみろと言はれても、できさうには思へない。

もちろん、厳密に回数を数へることはできない。自分なりに計算しながら、50万回を超えた。特に何も起こらない。

「ふ~ん、こんなものか」
と思ひながら、それでもさして落胆もせず、100万回を目指した。

そして、今日でいよいよ目標の100万回を達成したと思へる日を迎へたのです。

「こゝまでくれば、どんな『ありがたい』ことが起こるだらう」
と、我ながら期待が高まつた。

当日は、何も起こらない。起こつたのはその翌日と翌々日です。

2日続けて、検問中のパトカーに止められた。1日目は運転中の携帯電話。2日目は高速道路でのスピード違反。しかも2日目の違反で減点がかさんで一時免停になり、講習受講が課せられる羽目になつたのです。

そのとき私の内心にどういふ思ひが湧き上がつてきたか、想像に難くないでせう。

「100万回『ありがたう』を唱へて、どうして『ありがたくない』ことが起きるのか。いゝ加減な小林め」

一旦はさう思つたものの、しばらく思ひを巡らすうちに、二つのことを悟つたのです。

一つは、警察沙汰も1回ならまだしも、2日続けて起こるといふのは、偶然とは思ひにくい、といふこと。何かしら意味がありさうに思へる。

そしてもう一つは、自分が「ありがたい」と思ふことは、本当に「ありがたい」ことなのかどうか、それは軽々に判断できないのではないか、といふことです。そもそも自分は何を基準に「ありがたい」と考へてゐるのか。

実際この出来事が、私の「ありがたう探求」の原点となつたのです。

その2,3年後にこのブログを開始。その出発点のテーマは「感謝は信仰の本質」といふものでした。

それ以来、私の探求は少しづつ進みながら、今ではほぼかういふ結論に至つてゐます。

私に起こる出来事はどんなものであれ、「ありがたい」ことでも「ありがたくない」ことでもない。私が「ありがたい」と思へれば「ありがたい」ことになり、「ありがたくない」と思へば「ありがたくない」ことになる。しかしすべてのことは基本的に「ありがたい」ことであり得る」

それは確かにさうとして、先日ふいに脳裏に浮かんだのは、少し違ふことです。

15年前に作つて残しておいたあの100万回の「ありがたう」が、15年の年を経て、今のおばあちやんの「ありがたう」につながつてゐるのではないか。さう考へれば、確かに100万回の「ありがたう」は、信じられないほど「ありがたい」ことを創り出したと言つていゝ。

いや、おばあちやんの「ありがたう」だけではない。よくよく振り返つてみれば、100万回の「ありがたう」は至るところで「ありがたい」ことを作り続けてきたのかもしれない。問題は、私がそれによく気づかなかつたことではないか。

しかしそれなら、15年前にはなぜ2日続けて「ありがたくない(と思へる)」ことが起きたのか。それについての少しこまかな話は次回に。

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