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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

「心情」と「心」

2022/12/24
訓読三昧 0
天聖経
心情介護

母親が自分の赤ん坊を生んだとしても、隣村の乞食、もしくは貧民の息子娘がお乳を飲めずにいれば、彼らに自分の息子娘のようにお乳を飲ませてあげてこそ、心情が生じるのです。
(『天聖教』12-3-4-2)

今日のこの時代は、心の指向する方向と心情が求めている方向が、全く違う形で流れていっています。
(同12-3-4-6)

心は相対的な条件いかんによって制約を受けますが、心情の世界は制限する人がいないのです。
(同12-3-4-13)

「心情」といふ概念は、新しい真理を深めていく際に重要なキーワードの一つになると思ふ。さう思ひながらも、とても把握しにくいのがこの概念です。

「心」と「心情」の違ひといふ観点から、少し探つてみたいと思ひます。

心の方向と心情の方向とがズレてゐるといふ指摘がある。どうズレてゐるのでせうか。

最初の引用を例に考へてみると、自分の息子娘を愛するのは「心」の次元。自分の息子娘と隔てなく他の子どもたちも愛せてこそ「心情」の次元に入る。

私も自分の母親の介護には結構力を注ぐものの、同じやうに隣の老人も大切にできるかと言へば、それはやはり難しい。それはつまり、私のレベルはまだ「心」の段階であつて、「心情」的な介護とは言へないといふことでせう。

「心は相対的な条件いかんによつて制約を受けるが、心情はいかなる制約も受けない」

これはどういふことでせうか。

「相対的な条件」とは「環境」のことでせう。さう考へると、環境によつて制約を受けるとは、環境が私の主体になるといふことだと考へられます。

「この環境では、私はうまくやれない」
と否定的になる場合もあるし、逆に
「この環境のお蔭で、私は満足できる」
と肯定的になる場合もある。

環境による悲喜こもごも。良くも悪くも、それが「心」の働きです。

それに対して、「心情」は環境に制約されない。むしろ自分が環境を作らうとする。

「心」は「あゝでなくては、かうでなくては」と、自分に合はせて環境が変はることを願ふので、その願ひが叶はないときは自分が環境の被害者になる。それに対して「心情」は、どんな環境もあるがまゝに受け入れようとする。だから被害者にならない。

最後に、この一節も引用しておきませう。

心情は存在以前のものです。ですから、神様は愛だという結論が出てくるのです。… 心情は五官で測ることができません。
(同12-3-4-3)

これは難しいですが、敢へて端的に言へば、「心情」は「潜在意識」に近いもののやうにも思へます。

「(顕在)意識」は五官から入つてくる外界の情報のごく一部に基づいて感じたり判断したりする。それに対して「潜在意識」にはすべての情報が格納されるし、そればかりか、「私」以前の膨大な記憶までも蓄積されてゐる。

「意識」は「潜在意識」が浮上させる情報に気づくのが精いつぱいで、「潜在意識」に一体どんな情報が格納されてゐるのか、次の瞬間にどんな情報が「潜在意識」から送られてくるのか、ほぼ把握できない。「潜在意識」を大海だとすれば、「意識」はその大海に浮かぶ「あぶく」のやうなものだと言つてもいゝでせう。

そして「潜在意識」を「心情」、「意識」を「心」と言へば、「心情」と「心」の違ひをもう少しイメージしやすくなるやうな気がします。

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