臓器の声を聞く
臓器の声が聞こえるといふ人がゐるやうです。(『潜在意識3.0』藤堂ヒロミ)
例へば、ランチタイムに行き着けのレストランで食事をしてゐると、
「あ~、忙しい、忙しい。休む暇もないけど、働きつづけなくちや」
といふ叫びにも似た声が聞こえてくる。
声のするほうを見ると、男女2人がランチをとつてゐる。男性は上司のやうで、しきりに何か指示をしつづけてゐる。一方の女性は俯き加減。無言で食事を口に運んでゐる。
聞こえてきた声は、彼女が発してゐるのではない。彼女の「胃」が発してゐるのです。味はふこともなく次々と口に放り込まれ、食道を通つて降りてくる食べ物を消化しなければならない「胃」。その「胃」がぼやいてゐるのです。
さういふ声は、本人にも多分聞こえてはゐない。特殊な聴力を持つた人にだけ聞こえるやうなのです。
この特殊な聴力は超能力でせうか。あるいはオカルトでせうか。私は十分にあり得る話だと思ふ。
実際、胃が喋れるとしたら、あゝいふことを本当に言ひさうな気がします。胃は無言で頑張つてゐる。私のために精一杯自分の責務を果たさうとしてゐる。
その態度があまりにも健気なので、私はその本音に気づかない。しかし頑張りにも限界がくると、そのときやつと胃は叫び声をあげる。それが痛みです。
キリキリと痛んだり、下痢を起こしたりする。それで私は初めて気がつく。胃にとつては、あまりにも過酷な話です。
人間のやうに喋らないものに対して、我々はふだん無頓着すぎると思ふ。なぜこれほどに無頓着なのでせうか。
肉体の動き、働きは、そのほとんどが無意識です。胃はもちろん、心臓だつて肺だつて昼夜休むことなく働きつづけてゐる。しかも謙虚なことに、自分がそれほど働いてゐることをアピールしない。だから意識は気づかない。無頓着でゐられるのです。
意識にとつて無頓着でゐられるといふのはいゝことであり、ありがたいことでせう。心臓の鼓動をいちいち意識してゐたら、たまつたものではない。神経衰弱に陥つて、日常生活がおぼつかなくなる。
だから、ふだんはそれでいゝ。しかし限界値にきたときは、さすがに知らせる必要がある。無意識はさういふ仕組みになつてゐるのでせう。
しかし藤堂さんの体験を伺ふと、意識のほうから無意識に関心を向けてみることは、折にふれてあつてもいゝかもしれないと思ふのです。
「今日の胃はどんな気分だらう。何をつぶやいているかな」
「今日はパソコン作業で目を駆使したけど、目はどれくらゐの休息を願つてゐるかな」
かういふ問ひかけは臓器への労りでもあるが、同時に、無意識への労りでもある。良心もこの無意識世界と無縁ではないと思ふ。

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