宗教と科学の行く末
人間は、あくまでも論理的であると同時に、実証的なもの、すなわち科学的なものでなければ、真に認識するということはできないので、結局、宗教も科学的なものでない限り、よく知つてそれから信ずるということが不可能となり、宗教の目的を達成することはできないという結論に到達するのである。 (『原理講論』総序) |
一読すると、
「なるほど。確かにさうだなあ」
と思ふ。
ところが何度も読み直してみると、却つてだんだん分からなくなる。迷宮に入つたやうで、進まうとするとあちこち壁にぶつかる。結局、宗教と科学はこの先どうなつていくべきだと言ふのでせうか。
『原理講論』は新しい真理の出現が必要だと主張し、その真理は宗教と科学とを統一された一つの課題として解決できるものでなければならないと言ふ。その趣旨は、この先宗教も科学も単独では存立しなくなる。二つは統合(merge)されて、一つの「新しい真理」(取り敢へずさう呼称しておく)にならねばならない。さう考へていゝでせうか。
その際、宗教は科学的なものを取り入れ、科学は宗教的なものを取り入れていかねばならない。
そこでまづ、宗教の側から。
宗教は科学の何を取り入れるべきか。それは論理性と実証性です。この二つを満たすものだけを宗教は信じるべきだといふことになります。
ところが、これはちょつとおかしな話です。論理性と実証性を満たすものであれば、それはもはや信じる必要はない。『講論』は「よく知ってそれから信ずる」といふけれども、「よく知った」ならそれで十分であり、なぜさらに「信ずる」必要があるでせうか。
さうすると、宗教が新しい真理に統合されていけば、もはや「信ずる」といふことは要らなくなる。宗教は「信ずる」ものではなく、「知る」ものになるのです。「信じて」行ふより、「知つて」行ふのがづつといゝに決まつてゐます。「信ずる」と言つてゐるうちは、宗教は次のフェーズに行かない。
一方、科学の側から。科学は宗教の何を取り入れていくべきでせうか。
これまでの科学は論理性と実証性を重んじ、それを満たすものだけを取り扱つてきたので、「信ずる」といふ態度を排除してきた。新しい真理に向かふ科学はこれを取り入れるべきではないかと思はれます。
これはどういふ意味かと言ふと、
「人間はどこまでいつてもすべてを知ることはできない」
といふ事実を受け入れる謙虚さを持つことです。
そして、
「今はまだ分からないが、いづれ分かるときが来るだらう。今はかう思ふが、本当はさうではないかもしれない」
と考へ、今の段階の知見を「絶対知」だと思ひ込まないことです。
実際科学の最先端では、我々はまだ宇宙の事象のせいぜい5%ほどしか知らないやうだといふ認識が共有されつゝあるようです。そこで必要なのは、知らない95%を「かうだらう」と信じることではなく、「我々はまだほとんどのことを知らない」と率直に認めることです。
我々はアインシュタインが現れるまで、物質の周辺では空間が歪むといふことを知らなかつた。また量子力学が登場するまで、観測するまで物事は確定しないといふことも知らなかつた。
ところがそれから100年くらゐ経つてくると、宇宙で光が最速といふ理論も怪しくなつてくる。いづれ、140億光年先の宇宙の端にも一瞬で行つて来れる原理が見つからないとも限らないでせう。
そればかりではない。そもそも我々は自分の「意識」がどういふものか、ほとんど知らないでゐます。宗教がどうの科学がどうのと論じながらも、それらを生み出してゐる「意識」そのものの正体を知らないのです。
そのやうに考へてくると、宗教と科学が融合した新しい真理でさへ、「これですべて分かつた」といふ最終形態はどこまでいつてもなささうに思はれます。にも拘らず、我々は始終「私は正しい」と思ひ込み、「かうでないとだめだ」と主張する。自分の立ち位置をほんとうに知らないでゐるのです。

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