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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

「ロゴス」と「ピュシス」

2022/12/16
思索三昧 0
イエス 原理講論
動的平衡

福岡伸一、西田哲学を読む』(池田善昭x福岡伸一)の中で対談者の2人がしきりに「ロゴス」と「ピュシス」について論じてゐます。

池田さんは西田(幾多郎)哲学研究の第一人者で、
「西田哲学は西洋哲学の主流であるロゴスのアンチテーゼとしてピュシスを掲げ、独自の考へを深めていつた」
と言ふ。

そして福岡さんに向かつて、
「あなたの唱へた『生命=動的平衡』といふ概念は、西田の哲学に通じると思ふんだよ」
と言ふが、当の福岡自身は最初それがピンとこない。

その対談を読んでゐる私はもつとピンとこない。そもそも「ピュシス」といふ言葉自体、ほとんど初耳なのだから、私がピンとこないのはむしろ当たり前です。

2人の間で、かういふ話題が出されます。

「琵琶湖とは何か」
といふ問ひに対して、どう答へたらいゝか。

ロゴスに慣れてゐる我々は、
「それは滋賀県の真ん中にある、日本最大の湖で、面積はどのくらゐで…」
といふやうな答へになりやすいでせう。

しかし考へてみると、答へは存外難しいのです。

琵琶湖には絶え間なく水が流れ込み、一方では水が流れ出てゐる。一瞬として同じ水ではない。それなら、水を湛えてゐる窪みを琵琶湖といふのかと言へば、水のない窪地などもはや琵琶湖とは呼ばない。

つまり、琵琶湖はいつもそこに見えてゐるやうで、実は「これ」といふ実体がない。

それはちやうど、かの鴨長明が綴つた
「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」
といふ、あの感覚です。

これは湖や川に限つたことではない。どんな生物も絶えず何かを取り入れ、何かを排出してゐる。細胞も絶えず更新され続けてゐる。さういふ意味では、琵琶湖もDNAをもたない生物だと言へなくもないでせう。

さういふ生命のありやうを、福岡さんは生物学者として「動的平衡」と名づけた。そして「ピュシス」といふのは、ものごとの実在をそのやうに把握しようとする立場なのです。

しかしさうは言つても、「ピュシスとしての琵琶湖」をどう説明するか。難しいですね。なぜ難しいか。

説明するには言葉を使ふしかないのですが、その言葉自体がロゴス的なものだからです。ピュシスをロゴスで表現できるのか。かういふジレンマを私もよく感じるし、多くの方がさうではないでせうか。

今日自分が体験したことは一体何か。それを自覚するにも、他人に伝へるにも、体験を言語化しなければならない。言語化すれば無形だつたものが明瞭になるやうな気はするものの、同時にいろいろなものがその言葉から抜け落ちていくやうな気もするでせう。

ヨハネによる福音書はかういふ書き出しで始まつてゐます。

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

こゝでいふ「ことば」の原語は、ギリシャ語で「ロゴス」です。福音書が書かれた当時、「ロゴス」といふ言葉はいろいろなかたちで流行してゐたやうです。ヨハネはさういふ風潮を考慮しながら、巧妙にその流行語を聖書に取り入れ、「キリスト」を暗示させるやうに用ゐたとも思はれます。

しかし「ロゴス=キリスト」と言ひ表したところで、それでキリストの何を説明したことになるのでせうか。琵琶湖をロゴス的に説明しようとしたのに、どこか似てゐるやうな気がします。

同じ福音書にイエス様のかういう言葉があります。

よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生まれる前からわたしはいるのである。(ヨハネによる福音書8:58)

この言葉の真意について、『原理講論』はかう説明してゐます。

イエスは血統的に見れば、アブラハムの子孫であるが、彼は全人類を重生させる人間祖先として来られたので、復帰摂理の立場から見れば、アブラハムの祖先になる。
(「キリスト論」(三)イエスは神御自身であられるのだろうか)

これはロゴス的にはとても筋の通つた謎解きではある。しかしイエス様が本当にかういふ言ひ方をされたのだとしても、そのとき上のやうな理由をもつて言はれたのだらうか。この言葉には、何かさういふ理屈を超えた、もつと胸の奥からふつふつと湧き上がつてくるイエス様の魂の叫びのやうな響きが聞こえる気がする。

「私はあなたがたが表面的に見て判断してゐるやうな、そんな者ではない。私の生命の本質は時空の制約をはるかに超えて、神に直結してゐるのだ」

もちろんこれも言葉である以上、イエス様の心的体験をピュシス的に表すことは難しい。言葉といふのは互ひの思ひや体験を共有するには不可欠なツールでありながら、実際には思ひや体験の100%を包含することはできない。

だからイエス様が
「私の教へることが真理だ」
と言はずに、
「私が真理であり、道である」
と言はれたのも、そこに理由があるでせう。

文鮮明先生も同様に、
「男にとつて最高の真理は女であり、女にとつて最高の真理は男である」
と言はれたことがある。

私も
「原理によれば…」
などと軽々に言ふことはできないなと、最近は自戒するのです。

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