私の環世界
「環世界」
といふ言葉はあまり聞き慣れないものですが、興味深い概念なので、簡単にご紹介しようと思ひます。
この概念はドイツの生物学者ヤーコブ・フォン・ユクスキュル(1864-1944)が提唱した。
我々はふつう、普遍的な時間と空間の環境があり、その中ですべての生物が生きてゐると考へる。しかしそれぞれの生物はそれ固有の知覚を持つて生きており、従つて、独自の時間・空間として知覚されてゐる。つまり、生物ごとに特有の知覚世界に生きてゐるといふことです。この特有の知覚世界を「環世界」と呼ぶのです。
ユクスキュルは「マダニ」の例を挙げてゐます。
マダニは五感のうち視覚と聴覚がなく嗅覚、触覚、温度感覚の三感で生きてゐる。どのやうに生きてゐるか。
森や茂みで血を吸ふ相手が通りかかるのをぢつと待ち構へる。相手が近づいたことは、それが発する匂ひと体温による温度変化で感じ取る。そしてその温度の方向に身を投じ、うまく相手の体表に着地できたら体毛をかき分けて皮膚に入り込み、そこで生き血にあり着くのです。
ところで、マダニに血を提供してくれる相手がそう頻繁に通りかかるわけではない。それを待つ間、マダニは絶食を余儀なくされる。ある研究では、マダニが18年間絶食しながら待ち続けたといふ記録があるさうです。
マダニには相手の大きさも形状もつぶさには分からないでせう。しかも18年間も(18時間でも18日でもない!)絶食しながら待ち続けるといふことは、多分「時間感覚」もない。我々人間が知覚してゐる世界とはおよそかけ離れた世界に生きてゐるのです。
と、こゝでちよつと待つてください。うつかり「我々人間」と言ひました。果たして、我々人間はみな同じ環世界に生きてゐるのでせうか。
人間は基本的に誰でも五感をもつてゐますが、人によつてはその一部が欠損する場合もある。例へば、うちのおばあちやんは今や視覚と嗅覚が機能せず、聴覚もかなり弱い。オムツが汚れても気がつかないことが多いのを見ると、触覚も鈍つてゐる。際立つて残つてゐるのは味覚だけと言つていゝ。
さうなると、おばあちやんが生きてゐる環世界は、私などの環世界と実は随分違つてゐるだらうと想像されます。
しかしこゝでもつと重要な問題がある。人間の場合、それぞれの環世界が特有であるのは知覚機能の違ひによつてよりも、脳機能によるところが大きいのではないかといふことです。
例へば、女性がヘアスタイルを変へても、多くの男性はそれに気がつかず女性に嫌はれるとよく言はれます。これは男性の視覚機能が劣つてゐるといふ話ではない。
たいていの男性にとつて、女性のヘアスタイルの微妙な変化などあまり関心がない。だから視覚情報としては入つてきても、脳がそれをスルーするのでせう。
これはもちろん、男性だけの特性ではない。女性は女性で、関心のあるものは認知し、関心のないものはスルーする。それは同じでせう。
さう考へると、我々は誰でもみな、自分の関心のあるもの、高い意味づけのもので自分の環世界を創つてゐる。つまり誰でも自分だけの環世界で生きており、人間の数だけ環世界があるといふことになるのです。
この環世界は、我々が意識的に創つてゐるのかといふと、さうではない。自分の関心に従つて、ほぼ無意識に創つてゐるのです。そしてその環世界を「私の環境としての実体の世界」と思つて暮らしてゐる。これがとんだ勘違ひです。
「私の環境としての実体世界」には無数のものが存在し、それらは私の五感を通して絶えず電気信号のかたちで入つてくる。しかし私は無意識的にそれらを取捨選択し、自分の好みに合ふものだけを使つて私の環世界を創つてゐるのです。
無数の人がゐる中で、この人は好き、あの人は嫌ひと選り分ける。さまざまな意見考へがある中で、これは受け入れ、あれは排斥する。かういふことをほぼ無意識的におこなつてゐます。
しかし、これでいゝのか。
どのやうな環世界を創るか。これを自分の良心と対話しながら意識的におこなふ。こゝに私の人間としての責任分担があるのではないかと思ふのです。

にほんブログ村
- 関連記事
-
-
カッコウは騙すのか 2021/08/14
-
「絡合」と「創発」 2021/02/17
-
仏に遭ふては仏を殺せ 2021/04/12
-
己の姿は他人の中にしかない 2022/09/09
-
スポンサーサイト