創造しつゝ、創造される
神が人間に責任分担を与へたのは、神の創造性を受け継ぐためであり、万物に対する主管性を持てるやうにするためであつたと『原理講論』には説明されてゐます。
神から受け継ぐ人間の創造性とは何だらうか。それが今に至るまで私の疑問の一つです。
神の側からみて、人間に創造性を受け継がせたかつたのは、万物の主人といふ権限を与へるためであると言ふ。それはそれで重要なことだとは思ふのですが、神には何かもつと本質的で重要な、神ご自身にとつて措く能はざる理由があつたのではないか。
それが一体何か。私の中でもまだぼんやりとしてゐますが、思ふところを記してみます。
神が人間に創造性を受け継がせなくてはならない、避けがたい理由。それは神ご自身が創造され完成するためではないか。
それを
「創造しつゝ、創造される」
と表現してみます。
神が人間を「創造しつゝ」、その神が人間によつて「創造される」といふことです。神と人間とがそのやうな関係だとしたら、神は人間に創造性を与へざるを得ない。さうしないと、神はご自身が完成できず、本当の創造目的も達成することができない。
神と人間の関係をもう少し両面的に見れば、かうなります。
神が人間を「創造しつゝ」、その神が人間によつて「創造される」と同時に、人間は神から「創造されつゝ」、神を「創造する」。その意味で、人間にも神に匹敵する「創造主」の資格があると言へます。
神が人間を「創造する」といふのは分かる。しかし人間が神を「創造する」とは、一体どういふことでせうか。
神がこの世を創造する前、神が単独で自存しておられたとき、神は完全無欠の神だつたと言へます。神しか存在しないのなら、存在とはすべて神であり、その神の中に存在しないものは何もない。神の中には存在するものがすべてあつた。その意味で神は完全無欠だつたと言へるのです。
ところが、神が自分ではない他者としての対象を創らうと構想し、実際に創造し始めたときから、神は不完全な神に変貌した。神が存在のすべてではなくなつたからです。
つまり、神は創造主となることによつて自ら不完全な神となり、そこから改めて完全な(元よりさらに高く完成した)神になるための道をたどるべき神となつた。そのとき不完全な神を完全な神へと創造してくれる第2の創造主が誰かと言ふと、それが人間だと思はれるのです。
純粋霊である無形の神が自らの有形な体を持たうとしてご自身に似た人間を創造したのなら、その人間が完成しない限り神も完成しない。それで神は人間に、人間自らの力で完成できる能力を与へなければならなかつた。
人間の側からみれば、自分が成長するのは自分自身が成長するのだとだけ思つてゐるが、さうではない。実は同時に神を成長させ、神を完成に向かはせてゐる。それが私の成長の真相だと言へます。
本然的には「創造しつゝ、創造される」だけでいゝのですが、復帰摂理の途上にあつては「解放しつゝ、解放される」といふやうな関係も必要でせう。神が人間を罪の縄目から「解放する」環境を作りながら、同時に、人間が自ら信仰を立てることによつて神が「解放される」。
「しつゝ、される」といふ関係は、考へてみると、いくらでもありさうです。
親は「(子どもを)育てつゝ、(子どもに)育てられる」。
先生は「(生徒を)教へつゝ、(生徒に)教へられる」。
民主主義では政治リーダーが「(国民を)治めつゝ、(国民に)治められる」。
「しつゝ、される」といふ立場に立つことは、神が創造を思ひ立つたときから、運命的に定まつたことだつたと思ひます。

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