無意識と対話する
茂木健一郎さんの「お昼に何を食べたいか自問することから無意識との対話が始まる」はごく短いモノローグ動画ながら、深い示唆を含んでゐます。
「今日のお昼は何を食べるかな」
といふ自問はごくありふれた、自分の心の中の営みに思へます。
しかしその自問に対する自答には、実にさまざまな要素が含まれてゐるでせう。
例へば、ちやうどそのときネットでクッキング動画を見ていたとすれば、
「あっ、これを作つて食べてみよう」
と思ふかもしれない。
あるいはなぜか知らないが、今日はあつさりしたものを食べたいとか、からいものを食べたいと思ふこともあるでせう。それは自分でもはつきりと意識してゐないそのときの体調によるのかもしれない。
かういふ、たまたまのやうに思へる場合でも、そのときの体調による場合でも、思ひ浮かぶ回答はかなり無意識世界に関はつてゐるやうに思はれます。だから往々にして、自分の意識では思ひもしなかつたやうな答へが返つてくることがあるのです。
そして考へてみると、これは昼飯のことに限らず、日常何気なく繰り返してゐる自問自答は図らずも無意識世界へアクセスすることでなされてゐる。
そしてこゝからが重要なポイントですが、茂木さんが言ふやうに、それは自分といふものを超えてより広い世界にアクセスしてゐることでもあるのです。
もし私が意識だけで生きており、その中でだけ自問自答してゐるのなら、その対話は自分の中に閉じてゐる。しかし我々の意識の深層には無意識世界が広がつてゐて、それは自分を超えて他の存在と繋がつてゐる。無意識は謂はば、私が私以外にアクセスできる通路であり、情報を自由にやり取りできる共有スペースでもあるのです。
さう考へると、私の「昼飯何にするかな」といふ自問に対する答へは私ではない他の誰かから返つてきたものかもしれない。宗教ならそれを先祖の思ひかもしれないと考へたりもするでせう。
ここでもう一つ重要なポイントがある。それは、私以外の他者の中に神も含まれるのではないかといふことです。
私が何気なく発した自問に対して、神から回答が返つてくる可能性もある。さうだとすると、たかが「今日の昼飯」とあなどれないのです。
その意味で、茂木さんが
「無意識との対話を心がけよう」
といふのは貴重な提案だと言へます。

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