神目線を探す
物事を見るときに、3つの目線があると思ふ。
① 自分目線
② 相手目線
③ 神目線
自分目線といふのは、自分から見て「正しい」と思ふこと、あるいは「自分の利益になる」ことに判断の基準をおく目線です。この基準は自分の頭、つまり「私といふ意識」から生まれる。意識はこれが得意です。
2番目の相手目線とは、相手が「正しい」と思ふこと、あるいは「相手の利益になる」と相手本人が考へてゐるであらうことを私が推測して、それを判断の基準におく目線です。この基準も自分の頭で類推する必要がありますが、相手への「共感能力」も求められるでせう。
この2つは大抵の人が持てる目線です。さて問題は、第3の神目線。これはどういふ目線でせうか。
『原理講論』は「堕落論」に、
「堕落性本性の第一は、神と同じ立場に立てないということである」
と書いてゐます。
この「神と同じ立場」といふのが神目線と言つていゝでせう。そして「堕落論」は、我々はみな、堕落以来この目線を失つてゐると言ふのです。神目線で見られないところに堕落性があるので、堕落性を脱皮するには、神目線を何としても回復しなければならない。
しかし、我々がこの目線を必ず持てゐるといふ根拠はあるのでせうか。また、それを持てたと自負しても、それが本当に神の目線であることをどう確認したらいゝのでせうか。
聖書の物語に沿つて、少し具体的に考へてみませう。
昔、アダムの2人の息子たちが揃つて神に供へ物を捧げた。ところが神は次男アベルのものは喜び、長男カインのものは無視した。そこでカインは憤り、弟を打ち殺したといふのです。
この惨劇が起きる前に、神はカインに特別の忠告を与へられたと、聖書は記録してゐます。
「お前はその憤りを治めねばならない。それができなければ、罪が家の門口に待ち伏せてゐる」
かういふ忠告があつたにも拘らず、カインは罪にそそのかされて弟を殺してしまつた。なぜ忠告を生かせなかつたのでせうか。
聖書は「神の忠告」のやうに記述してゐるものの、我々自身の現実の生活レベルで考へれば、それは神の声といふより、自分の良心の声とみていゝのではないかと、私は思ふ。つまり、カインの良心はそのレベルまで機能してゐたことになります。
さう考へると、「神の忠告」とは自分自身の中の良心との対話と言つていゝ。良心がカインに問ひ、カインがそれに答へるといふかたちです。
良心とカインとのやり取り。それをふつうには「自問自答」と言つたりするのですが、こゝでは最初の「自」を良心、2番目の「自」をカインと考へます。
良心はカインに
「あなたは憤りをそのまゝにしていゝと思ふのか」
と問ふ。
それに対して、カインは答へを返さなければならないのです。そのとき第1の目線で答へれば、「そのまゝでいゝ。私の憤りは正当です」といふことになるでせう。2番目の目線なら、もう少し弟の立場も考慮して、自分の感情を(冷静、客観的に)吟味できる可能性もある。
しかし良心は第3の目線での答へを期待してゐるのです。この答へを出すためには、カインは「神の立場はどこにあるか」を探さねばならない。どこで、どう見つけ出せばいゝのでせうか。
この続きは次回に。見つけ出せればいゝのだが。

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