批判する人ではなく
「あなたがたの中で、自分には罪がないと思ふ者がゐれば、この女に石を投げなさい」
といふイエス様の言葉。
罪の現場を押さへられた罪の女を引きずり出して、
「この女をモーセの律法通り、石打ちの刑にしていゝと思ふか」
と問ひつめてやまない律法学者たちに対して、イエス様が上のやうに答へたと福音書は伝へてゐます。
この言葉について前回の記事「毒を飲まない」では、
「いかにも正義らしい言論でも、その裏には相手を批判せずにおれない心の毒が隠されてゐるのを感じることがある。その毒を飲みたくはないので、さういふ言論を私は受け入れるつもりも関はるつもりもない」
と控へめに解釈してみたのですが、もう少し踏み込んでみたいと思ひます。
注意深く吟味すると、イエス様の言葉には批判がないことに気がつきます。
まづ第一に、罪の女を批判してゐない。律法学者たちがモーセの律法を楯に有罪と特定し、極刑に処すべしと主張するのに対して、イエス様はそんな律法については一言もふれてゐないのです。
そして第二に、律法学者たちをも批判してゐない。
ふつうなら、
「さういふお前たちだつて、これこれかういふ罪があるぢやないか。偉さうなことを言ふな」
とでも反撃したいところでせう。
しかしイエス様は批判しない。「罪がないと思ふ者なら裁いてもいゝだらう」とだけ言つてゐるのです。これは批判ではなく、本人の良心に問ひかける正論と言つていゝと思ふ。
そしてその言葉自体には現れてゐないものの、イエス様の心中には次のやうな切実な思ひが湧きたつてゐるだらうと推察します。
「私は他の罪を糾弾する者ではなく、自ら罪を犯さない者、神を愛する者でありたいと思つてゐる。そしてさういふ者であることによつて、罪に悩む者に慰労と許しと救ひを与へる権威者でありたいと願つてゐる」
イエス様は天国をもたらすために来られたと、ふつうには信じる。それは確かでせう。しかし天国を願ふ人たちの天国観は往々にしてかなり狭いやうな気がするのです。
「これをしなければ天国には行けない」
「これをすれば天国には行けない」
といふふうにさまざまなハードルを設定して、なぜかできるだけ天国への道を狭めようとしてゐるやうにさへ見えます。天国人を作らうとするのではなく、地獄人を確定することに躍起になつてゐるやうに見える。
「滅び(地獄)に至る門は大きく、その道は広いが、生命(天国)に至る門は狭く、その道は細い」
と福音書にあります。
この箴言は確かにその通りかもしれない。しかし批判を専らにする人たちがこれを徒に乱用すれば、天国への門を無理やり狭くして天国希望者を排除するといふ弊害を生む恐れがあると思ふのです。
イエス様は明らかに、生命に至る門を最大限に広げ、その道を広くするために来られ、そして実践されたのでせう。批判する人ではないのです。毒を飲まないだけの人ではなく、毒を解毒し、毒を発しない人なのです。

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