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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

毒を飲まない

2022/12/05
世の中を看る 0
イエス
毒を飲まない

福音書が伝へる一つのよく知られたエピソードがあります。ときどきこれを思ひ出す。

姦淫の現場を押さへられた女が広場に引きずり出され、公開処刑に処されやうとする。引きずり出したのはユダヤ教の律法に精通した律法学者やパリサイ派の人たち。彼らは罪の女を使つてイエス様を姦計にかけようと目論んでゐるのです。

「モーセは、姦淫の罪は石打ちの刑に相当すると言つてゐます。教師イエスよ、あなたはどう考へますか?」
と彼らは問ふ。

しかしイエス様はすぐには答へない。かがんで地面に何か書き続けてゐる。そして、詰問者たちがじれてきたところで、錐の一言を発するのです。

「あなたがたの中で、自分には罪がないと思う者がいれば、この女に石を投げなさい」

さう言ふと、イエス様は再び身をかがめて、地面に何かを書き続けられた。ところが、詰問者たちの中の年かさの者から順に、一人二人とその場から立ち去つて行つたといふのです。

イエス様のこの錐の一言については、解説が百出するでせう。実に賢明でかつパワフルな一言に違ひない。この状況でこれ以上適切な言ひ返しはなかつたらうとさへ思へます。

どうして私がこの話を時々思ひ出すのか。

詰問者たちが詰問するその動機は正義なのか、それとも不正義なのか。本人たちにすればもちろん正義でせう。モーセの律法に姦淫は重い罪だと定めてある。その律法に則つて罪を糾弾する自分たちは当然正義に決まつてゐる(と思つてゐる)。

ところが彼らは、この女の犯した罪によつて直接の被害を被る立場ではない。それなのになぜこれほど厳しく糾弾するのか。それは、イエス様を罠にかけようといふ奸計が胸の内にあるからなのです。

自分たちは正義の立場なので、不正義を容赦なく糾弾する資格と権利があるといふ表向きの名目がある。ところが裏には、表向きの正義を隠れ蓑にして自分の論敵を駆逐しようとする狡猾な動機が隠れてゐる。

この2つは、今でも我々が情報を発信したり互いの考へを述べ合つたりするときに内在する普遍の要素のやうな気がします。今日、マスコミやSNSで行き交ふ情報を見るとそれを感じる。多くの場合に、この2つか、あるいはそのどちらか一方が含まれるのではないでせうか。

そして情けないかな、我々はその情報戦にあえなく呑み込まれてしまひやすい。さういふときに、あのイエス様の錐の一言が思ひ出されるのです。

「あなたがたの中で、それを言ふ資格が本当にあると思ふ者は言ひ続けなさい」

さう言つてみたいところです。しかし残念ながら、自分自身にもそんな偉さうなことを言へる資格がありさうにない。そこで私はイエス様の一言を、かなり控へめに、かう解釈してみるのです。

「いかにも正義らしい言論でも、その裏には相手を批判せずにおれない心の毒が隠されてゐるのを感じることがある。その毒を飲みたくはないので、さういふ言論を私は受け入れるつもりも関はるつもりもない」

この「受け入れない」「関はらない」といふ態度。それは、イエス様が詰問者たちの激しい詰問を聞き流すやうに無言で地面に何かを書いてゐるといふ態度に象徴的に現れてゐると、私には思へる。

このイエス様の対応に倣ひ、取り敢へず、最近私はマスコミやSNSのニュースをほとんど見なくなつてゐます。特にタイトルを見て、何かを批判するやうなニュースと思へるものはクリックしない。すると見るべきニュースはずいぶん減るのです。

「ほとんどのニュースはなくてもいゝな。見なければ見ないほど、生活が穏やかになる」
と思ふ。

毒のありさうなニュースは、イエス様のやうにかがんで頭を低くして頭の上を通り過ぎるに任せる。頭を上げ、自分から進んで毒を飲みに行く必要などないと思ふのです。

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