神の価値論
ある個性体の創造本然の価値は、それ自体の内に絶対的なものとして内在するものでなく、その個性体が、神の創造理想を中心として、ある対象として存在する目的と、それに対する人間主体の創造本然の価値追求欲が相対的関係を結ぶことによって決定される。 (『原理講論』創造原理) |
前回の記事「『基準』を手放す」では、
「自分なりの基準がバカの壁を作る」
と考へました。
価値論から考へても、「自分なりの基準」は手放すべきだと思はれます。
自分なりの基準で対象(人であれモノであれ)を計るとといふのが、従来の一般的な価値観です。それに対して「創造本然の価値観」は絶対者なる神の創造理想を基準としなければならないと講論は言ふ。つまり、「自分なりの基準」を手放せといふのです。
少し具体的に考へてみませう。
私に好きな人と嫌ひな人がゐるとします。価値的に見れば、好きな人は私にとつて価値のある人であり、嫌ひな人は価値のない人です。このとき、私の中に「かういふ人は好きで、かういふ人は嫌ひ」といふ「基準」があり、それが相手の価値を決めてゐることが分かります。
好き嫌ひの「基準」は何でせうか。
私に利益を与へる人は好きで、損害を与へる人は嫌ひなのかもしれない。とすれば、私がもし好き嫌ひの基準を変へれば、好きな人が嫌ひになり、嫌ひな人が好きになるかもしれない。
さらに進んで、「基準」そのものを捨てればどうなるでせう。私には「好きな人」も「嫌ひな人」もゐなくなる。結果、どんな人の価値もフラットになります。特定の人だけが他の人に比べて特に価値があるといふことがなくなるのです。反対に、特定の人が特に価値がないといふこともなくなる。
このやうな価値のフラット状態ができたとき、それを土台として「創造本然の価値」が現れる。
「創造本然の価値」は絶対者である神を基準として、これに対して相対的に決定されるといふ。それなら、神はどんな「基準」を持つておられるのか。多分「フラットな基準」だらうと思ふのです。
神には、「これは好きだが、あれは嫌ひ」といふ基準がない。「あれは善で、これは悪」といふ基準もない。神はご自分が創造したものにさういふ区別を持たない。
それなのに、これまでは我々が勝手に
「あれは好きだが、これは嫌ひ」
と言ひながら、価値に差別をつけてきたのです。
だから我々が自分なりの「基準」を捨てさへすれば、神の「基準」が現れる。どんな人も、どんなモノも、それぞれに創造本然の価値を顕はすやうになる。
結局、講論の価値論も
「自分なりの基準を捨てよ」
と言つてゐるやうに思はれます。

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