「基準」を手放す
養老孟司さんの言ふ「バカの壁」は至るところにあるが、誰がその壁を作つてゐるかと言へば、他でもない、自分自身です。
壁があつて疎通がよくないなら、どうすべきか。その壁を自分で壊せばいゝ。
ところが、自分で壁を作つておいて、
「とかくこの世は壁ばかりで疎通がよくない。物事の道理が分からない奴が多すぎる」
などと、世の中に対して、他人に対して不平を鳴らすことが多いのです。
隣近所の身近な付き合ひであれ、国家のやうな大きな組織であれ、一つの課題について必ず賛否両論があつて対立論争が生じるのは常のことです。
わたしに一つの私なりの考へがあれば、それに反対する意見はおかしいと思ふ。それはよくないから、何とか変へさせたほうがいゝと考へる。
そこで論争が生じて、自分が勝てば「これでよかつた」と思ふし、負ければ悔しい。どうして負けたのだらうかと、あとになつても思ひ出しては自分の不甲斐なさを責め、相手のことが憎たらしくなる。
しかし、勝つにしろ負けるにしろ、こゝで最も深刻な課題は結果としての勝敗ではなく、
「私が壁を作つてゐる」
といふ事実それ自体です。
この壁は目に見えない。自分で作つておきながら、自分でも気づかないことが間々ある。そして結果としての「勝つたか、負けたか」だけに気を取られてしまふのです。
「壁を作る」とは、そもそもどういふことでせうか。
私の中に「特定の基準」があつて、その基準によつて物事を見るとき、そこに必然的に「壁」ができるのだと思はれます。
「この基準に合ふ私は正しいが、合はない人は正しくない」
と考へるとき、私と相手の間に「壁」が生じるのです。
そして「壁」を作るといふことは、その「壁」で相手をブロックし、相手を受け入れないといふことです。「勝つか負けるか」は大きな問題ではない。本当の問題は、私が「壁」を作ることによつて、私には極めて限定的な「受容の幅」しかなくなるといふことなのです。
「受容の幅」が狭いと、どういふ問題があるのでせうか。
私が愛せる人が極めて限定されてしまひ、それ以外の多くの人は私の敵になる。私自身がとても生きづらいだけでなく、豊かな愛が育たないでせう。
だから「壁」はないほうがいゝ。「壁」を作らないための方法があるでせうか。自分が自ら「特定の基準」を手放すことです。
• これだけが正しく、それ以外は正しくない
• かういふ人は良いが、あゝいふ人は良くない
さういふ「基準」を手放せば手放すほど、私は自由になる。「正しくない人」も「良くない人」もゐなくなり、すべての人がフラットになる。
いつ手放すか。「壁」が生じたと自覚するときこそ、「基準」を手放す絶好のチャンスなのです。

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