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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

神を見せる方法

2022/11/29
愛で生きる 0
イエス
父を見せる

ピリポはイエスに言つた、「主よ、わたしたちに父を示してください。そうして下されば、わたしたちは満足します」。
イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は,父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか」
(ヨハネ福音書8:8-9)

イエス様のこの返答は有名な一句であり、同時に解釈が難しく議論の的となる一句でもあります。ある人は、これをもつて「イエス=全能の神」である証拠だと言ふ。また別の人は、「イエスは神の特質を完全に反映してゐると言ふ意味だ」と考へる。

考へてみると、このときイエス様はピリポの要請に対して、これ以外の返答ができたでせうか。どうしたつて、無形の霊的な神を肉眼で見えるやうに示すことはできない。

そこで次善の策として、例へば、かういふ方法もあるかもしれない。

「この花の種を見なさい。小さな種の中に将来出てくる根、幹、枝、葉、花、果実すべての情報が畳み込まれてゐる。だからオリーブの種は間違ひなくオリーブの実を実らせ、小麦の種は間違ひなく小麦になる。こんな種を神以外の誰が作り得ようか」

「あるいは、空を見上げてもよい。無数の天体が秩序を保つて一糸乱れず運行してゐる。広大無辺な宇宙がただ一つの法則のもとで存在してゐる。こんな宇宙を神以外の誰が作り得ようか」


かういふ説得も悪くはないやうに見えます。しかし結局は傍証に過ぎない。神を見せることにはならないのです。

さう考へると、イエス様の返答は最高にして、もしかすると唯一の返答かもしれない。かういふ返答をされたイエス様の内心に入つて、なぜこんな返答が出てきたのかを(不遜は承知の上で)推測してみませう。

今自分の中には高い自尊心がある。自分がこのやうな人間として生きてゐることに悦びがとめどなく湧いてくるし、自分に接する人をどんな人でも受け入れ愛することのできる愛があるのを自覚してゐる。

かういふ内面の充実感は父なる神そのものから来てゐるのではないか。おそらく神ご自身がかういふ方であるのだらう。

つまり、今自分が自分に対して感じてゐる自覚は、神への認識そのものであるのに違ひない。人は誰でも自分の中にあるレベルの神性を自覚してゐるものだが、神はそのレベルだけのご自身の姿をその人を通して現すことができる。

さう考へてゐるところへ、ピリポが「神を見せてください」と頼んできたのです。すると当然のやうにイエス様は返答する。

「私は私の中にこの上ない神性を感じてゐる。だから私を見れば私の神性レベルの神をあなたは見ることができるはずだ。それが唯一にして最高の神の見せ方だ」

これはイエス様に限つた話ではない。我々すべてにおいて、同様のことが言へます。

我々は自分が内的に到達したレベルに応じての神を知ることができる。子女の愛しか知らないときは、子女である神を。兄弟の愛まで知れば、兄弟である神を。夫婦になれば、夫婦の神を。そして父母の愛を知れば、父母の神を知ることができる。

そして自分が知つた神を誰かに見せる唯一の方法は、自分の姿を見せることなのです。

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