「縁」を与へて「因」を顕在化させる
否定されると、「血統的な情」はそれを不快に思ふ。そして私を不快にした原因を私の外に探さうとするのです。しかし、これでは復帰摂理は進まない。 (「正しい心情の原動力」当ブログ) |
この記事にコメントもいただいたので、もう少し考へてみようと思ひます。
「否定」といふのは、表だつて、あるいは言葉で
「お前はダメだ。お前は間違つてゐる」
と言はれることばかりではない。
私の思ひ通りにいかない状況のすべてが、私に対する「否定」だと考へます。
例へば、今日は久しぶりの行楽に出かけようと思つてゐたら、運悪く台風が来て土砂降り。とても行楽に出かけるどころではなくなつた。これも一つの「否定」です。
あるいは、1日中家事を頑張つて疲れた。もう少し残つてゐる家事があるので、夫が帰つてきたら手を貸してもらはうと思つてゐたのに、夫はまつたくその気がない。これも「否定」です。
かういふとき、私の中には必ず何らかの「思ひ」が湧いてきます。まづ最初に我知らず無意識に湧いてくる思ひは大抵「血統的な情」です。
「どうしてこんなときに台風なんかがやつて来るんだよ」
と、自然現象の台風でさへ恨みたくなる。
夫に対してなら、もつと抜き差しならない恨みが残るかもしれない。
しかし実はこのとき、私における「復帰摂理」がスイッチONになつてゐるのだと思ふ。うまく対処できないと、私には恨みや苦痛だけが残る。反対に蕩減条件が立つと、私の中に「神の愛の本性」が復帰されるのです。
「血統的な情」をそのまゝ肯定すると、失敗します。
「血統的な情」はその情の原因を、必ず自分の外に求める。
「行楽の予定がおじゃんになつて落胆したのは、台風のせいだ」
「私が夫を尊敬できないのは、非協力的な夫の態度のせいだ」
といふふうに、自分を困らせてゐるのは必ず自分以外の存在だと思ふのです。
ところがこれでは蕩減条件が立たない。復帰摂理を進めるためには、問題の原因をつねに自分の中に探す必要があるのです。
ところが、これが難しい。なぜ我々は、問題の原因を自分の中に探すことがかうも苦手なのか。
仏教的な概念を使ふなら、我々は往々にして「縁」と「因」とを取り違へてゐるのではないかと思ふ。
「縁」といふのは、上の例で言へば「台風」や「非協力的な夫」なのです。これらのせいで私が落胆したり恨んだりしたとしても、それは「縁」であつて「因」ではない。
「因」はあくまでも私の中にあるのです。「縁」に触れることによつて、私の中の「因」が外に出てくる。そのときに「落胆」や「恨み」の思ひとして感じられるのです。
ところが「縁」と「因」とを取り違へると、「縁」のせいで私が落胆したり恨んだりするのだと勘違ひしてしまふ。「縁」だけが目に見えるので、さういふ勘違ひが起きやすい。
「縁」は今風に言へば、「トリガー」ですね。自分の中にある「因」を引つ張り出す「引き金」に過ぎない。
「縁」がなければ「因」は可視化されない。だからその意味で「縁」は必要であり、「縁」のお蔭で私は自分の中の「問題の因」に初めて気づくことができるのです。
そのやうに考へると、「復帰摂理」とは必要に応じて神が私に「縁」を与へて「因」を顕在化させる摂理であるとも言へます。そこまでが神の分担であり、あとは私がどう対応するかを見ておられる。

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