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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

正しい心情の原動力

2022/11/25
信仰で生きる 2
李耀翰
  李牧師

結論は、皆さんの実体が本当に正しい心情の作用、心情の原動力をもつことです。

人間と付き合うときも日本的皮をむいて、血統的な情を超越して、神の愛の本性の主管性をもった自分にならないと、自分のやっている仕事を、神の立場で、神の代表者として責任を果たす可能性がないのです。
(「復帰摂理が根本」李耀翰

我々がみな例外なく、その只中にゐる「復帰摂理」の目的とは何か。「血統的な情」を超えて「神の愛の本性」を持つ私になることだといふのです。

「血統的な情」とはどんな情でせうか。無意識的に出てくる感情、思ひです。

特定の癖のある人に対して、無性にイライラする。

あまり協力してくれない夫に対して、
「どうしてこの人は、こんなに気が利かないんだらう」
と愛想をつかしてしまふ。

かういふ情は、考へる前に無意識的に湧いてくる。そしてそれが湧いてくる原因は「特定の癖のある人」であり「協力してくれない夫」だと思ひ込んでゐるのです。

これをどうして「血統的な情」と言ふのでせうか。私の先祖が同じやうな状況を体験しながら、長い間代々繰り返しながら積み上げてきた情だからです。これはほとんど習ひ性になつてゐます。だから私にも我知らずに湧いてくる。

これを断ち切り、転換するのが「復帰摂理」の眼目だといふわけです。

それなら、転換して目指すべき「神の愛の本性」とはどんなものでせうか。

「復帰摂理」は私の中の「血統的な情」をつねに否定しようとする。これが私を神から離反させてゐるものだからです。

否定されると、「血統的な情」はそれを不快に思ふ。そして私を不快にした原因を私の外に探さうとするのです。しかし、これでは復帰摂理は進まない。

どうすればいゝのでせうか。

否定を「よく来た」と、当然のことのやうに受け止めるのです。さうすると、否定されても不快にならない。

私の願ふやうに協力してくれない夫は、私を否定する人です。「血統的な情」はそれを不快に思ふのですが、「神の愛の本性」は不快に思はない。

「夫の態度は、今の私に相応しい」
と思つて、夫を愛で包み込まうとする。

なぜ相応しいかと言へば、夫の態度は私に原因がある。といふより、夫の態度を不快に思ふ原因が私にある。その不快の起源地が「血統的な情」なのです。

否定を受け入れ、むしろそれを自分の成長のための栄養にする。さういふ人を「正しい心情の原動力を持つ人」と呼ぶのです。

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Comments 2

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大学院生

私も本当に賛同します。

人から正論を言われて、自分の行動を否定されたり、あの行動はダメだよと言われたりして、嫌な思いをするのは人として普通なのかもしれません。

最近の私は、嫌な思いをした後に落ち着いて考えてみることがあります。そうすると相手の否定の意見の意図が見えてきたり、私の行動の異常さも見えてきたりするわけです。

ただ、自分の後輩や友人を見ていてもそうですが、皆が否定された後に落ち着いて考えられるわけではない。そういうわけで、この差は本当に大きいと思います。

基本的に愚痴を言って終わりな人たちが多い中で、相手の否定の意見に対して思いを馳せられる人は体感的に10パーセントいるかいないかくらいではないでしょうか?

そういう意味で、原理やみ言は本当に真理を突いているといつも悟らされます。


追記
たまにですが、ブログ拝見させていただいてます。頷くことや納得させられることが多くて、過去の内容を見まくったりすることもありました笑!これからも楽しみにしています。

2022/11/26 (Sat) 14:11
kitasendo

kitasendo

Re: 私も本当に賛同します。

嫌な思いをした後で落ち着いて考えてみるというのは、一種のメタ認知ですね。これは自分の良心の声を聞く入り口だと思います。
否定は単に意見の違いだけではないですね。自分の思い通りにいかない状況のすべてがある意味で否定です。このときに自分の中に湧いてくる思いをどう処理するか。これが私の蕩減復帰摂理ですね。

2022/11/26 (Sat) 18:18