正しい心情の原動力
結論は、皆さんの実体が本当に正しい心情の作用、心情の原動力をもつことです。 人間と付き合うときも日本的皮をむいて、血統的な情を超越して、神の愛の本性の主管性をもった自分にならないと、自分のやっている仕事を、神の立場で、神の代表者として責任を果たす可能性がないのです。 (「復帰摂理が根本」李耀翰) |
我々がみな例外なく、その只中にゐる「復帰摂理」の目的とは何か。「血統的な情」を超えて「神の愛の本性」を持つ私になることだといふのです。
「血統的な情」とはどんな情でせうか。無意識的に出てくる感情、思ひです。
特定の癖のある人に対して、無性にイライラする。
あまり協力してくれない夫に対して、
「どうしてこの人は、こんなに気が利かないんだらう」
と愛想をつかしてしまふ。
かういふ情は、考へる前に無意識的に湧いてくる。そしてそれが湧いてくる原因は「特定の癖のある人」であり「協力してくれない夫」だと思ひ込んでゐるのです。
これをどうして「血統的な情」と言ふのでせうか。私の先祖が同じやうな状況を体験しながら、長い間代々繰り返しながら積み上げてきた情だからです。これはほとんど習ひ性になつてゐます。だから私にも我知らずに湧いてくる。
これを断ち切り、転換するのが「復帰摂理」の眼目だといふわけです。
それなら、転換して目指すべき「神の愛の本性」とはどんなものでせうか。
「復帰摂理」は私の中の「血統的な情」をつねに否定しようとする。これが私を神から離反させてゐるものだからです。
否定されると、「血統的な情」はそれを不快に思ふ。そして私を不快にした原因を私の外に探さうとするのです。しかし、これでは復帰摂理は進まない。
どうすればいゝのでせうか。
否定を「よく来た」と、当然のことのやうに受け止めるのです。さうすると、否定されても不快にならない。
私の願ふやうに協力してくれない夫は、私を否定する人です。「血統的な情」はそれを不快に思ふのですが、「神の愛の本性」は不快に思はない。
「夫の態度は、今の私に相応しい」
と思つて、夫を愛で包み込まうとする。
なぜ相応しいかと言へば、夫の態度は私に原因がある。といふより、夫の態度を不快に思ふ原因が私にある。その不快の起源地が「血統的な情」なのです。
否定を受け入れ、むしろそれを自分の成長のための栄養にする。さういふ人を「正しい心情の原動力を持つ人」と呼ぶのです。

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