神は「原罪」、人は「原恩」
「原罪の世界」と「原恩の世界」。この二つの世界は、どちらかが真実でどちらかが虚偽だといふものではないと思ふ。私たちは罪もあれば恩もある一つの世界に住んでゐるのですが、その世界が私の意識にどのやうに映るか。その意識の違ひによつて、「原罪の世界」にも見え「原恩の世界」にも見えるのです。 (「原恩の世界」当ブログ) |
「原恩」とは、先般亡くなつた社会学者見田宗介さんが提唱した概念です。一神教における「原罪」に対して汎神論における「原恩」といふ構図で語られたりします。
「原罪」はキリスト教が代表的に主張するもので、人間始祖の堕落によつてこの世界は基本的に無価値な罪(黒)の世界になつた。その中で唯一、神によつて意味づけられた行為や存在だけが白で存在する。それで復帰の摂理とは、黒いキャンバスに白い絵を少しづつ描いていくやうなものだと喩へることができます。
それに対して「原恩」の世界は、基本が白。罪悪はむしろ局地的・一時的な「よごれ」として、ところどころに黒い陰影が滲みのやうに描かれるに過ぎない。日本の神道などはこちらでせうね。
以前の記事では、
「罪もあれば恩もある世界に住みながら、意識次第で『原罪の世界』にも見え、『原恩の世界』にも見える」
と書いたのですが、少し違ふ見方もできさうに思へます。
「原罪の世界」は神から見える世界であり、人間はむしろ「原恩の世界」に生きるほうがいゝのではないか。そんなふうに思へるのです。
神から見れば、人間始祖はすべての人間の種のやうなものです。神は始祖を通して見るので、どんな人間を見ても始祖が間違つたその結果として見えてしまふ。間違つた夫婦の子孫だから、彼らに過ちはないとしても、愛さうとするとどうしても心が引つかかつてしまふ。その引つかかりが、神にとつても苦しい「原罪」といふ表現にならざるを得ないのです。
一方、我々にしてみれば、人間始祖など知らない。名前と簡単なエピソードだけは知つてゐるものの、会つたこともなければ話したこともない。私は私であり、私が今見て感じてゐる世界だけが存在する世界なのです。それで自分自身も良くなりたいし、環境も良くしていきたいと願つてゐる。
ところがキリスト教は神の持つ「原罪」といふ心的世界を人間界に持ち込んでしまつた。
そして、
「お前たちは一人残らず原罪を持つ、罪の子である」
と宣言してしまつたのです。
もちろんそれは間違ひではあるまい。しかしそれを聞いた人間たちは、突然「黒い世界」に放り込まれるのです。
「あゝ、我々には何一つ良いものはない。頭のてつぺんから足のつま先まで真つ黒で、神の慈悲と救ひ主の権能なくしては一点の白もない存在だ」
と思ひ込むやうになつた。
確かに我々は黒の要素を濃厚に持つてゐるには違ひないでせう。神の心的世界を知らないよりは知つてゐたほうがいゝかもしれない。しかし黒だけの世界はあまりにつらい。首根つこを押さえつけられたやうで、苦しくて仕方ないのです。
「宗教(これはほぼキリスト教ですが)は、お前たちには救ひがたい罪があると言つた上で、しかしこれを信じれば救ひがあると、救ひの手を差しのべる」
と、『神との対話』の神は言ひます。
言葉は悪いが、これではマッチポンプのやうで、人はみな宗教(キリスト教)によつて規定され、しかもそれなくしては生きていけないといふことになる。人々は甚だしい強迫観念に囚はれ、結果的に宗教は絶大な権力を手に入れることになるのです。
それで、人間の世界は「原罪」(黒)よりも「原恩」(白)で生きるほうがよくはないかと思ふ。自分自身も含め、この世界全体がいかに素晴らしく運行してゐるかに(つまり白に)焦点を合はせて生きるのです。

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