神の存在証明戦
キリスト教の歴史には、有神論者が無神論者を説得しようとする試みが随分あります。
例へば、中世随一の神学者トマス・アクィナスは「宇宙論的証明」と呼ばれる方法で、神の存在を証明しようとした。これはアリストテレスの「根本の原因者」といふ概念を借用したものです。
すべての事物や出来事には必ず原因があり結果がある。宇宙の物体がすべて運動してゐるなら、その原因があるはずである。そしてその原因を順次遡つていくと、いつかはそれ以上遡れない原初の原因に行く着かねばならない。それこそが「神」であると主張するわけです。
かういふ試みは彼だけではない。およそ歴代の名だたる哲学者も、この「神の存在証明戦」に参戦してゐます。
巷間ニュートンの逸話とも伝へられる、こんな話もあります。
彼があるとき、腕のいゝ職人に依頼して、精巧な太陽系の模型を作らせた。無神論者の友人が訪ねてきたとき、ニュートンはさつそくそれを操作して動かして見せた。
友人は感嘆の声をあげ、
「こんな精密なものを、一体どこの天才が作つたんだ?」
と尋ねると、ニュートンは事もなげに、
「なに、誰が作つたのでもありやしない。偶然に出来上がつた代物だ」
と返答する。
「バカにするな。そんな戯言(たわごと)を信じるほど俺を愚かだと思ふか!」
と憤慨する友人に、ニュートンは穏やかにこう言ひ返したのです。
「これは、君もその法則を知つてゐる壮大な太陽系の、ごく単純な模型にすぎない。この単なるおもちやさへ設計者と製作者がゐるはずだといふなら、この原型である太陽系そのものにさういふ存在が必要だと思はないのか」
この逸話を伝へるWikipediaは最後に、
「友人はこれを聞いて、神の存在を認めるやうになつた」
と書いてゐますが、私は疑はしいと思ふ。
いや、その友人は割合素直な無神論者で、ニュートンの巧妙な論法を受け入れたかもしれない。しかし私が疑はしいと言ふ意味は、別に2つある。
一つは、すべての無神論者がこの論法に簡単に屈するとは思へない。基本的に人は、自分が信じたいものを信じる。正しいから信じる、間違つてゐるから信じないといふやうな単純なものではない。
無神論者はそれが好きで無神論なのです。ところが上の逸話では、「有神論は論理的で正しいから信じよ」と言つてゐる。かういふ論法は、下手をすると歓迎よりも、むしろ強い反発を喰らふ恐れがあります。
もう一つは、このやうな成り行きで信じるやうになつた「神」はその人にとつて本当に有益な「神」だらうかといふことです。ニュートンにせよアクィナスにせよ、それ以外の多くの哲学者にせよ、彼らは一体どんな神を証明しようとしてゐたのか。これが疑問です。
どんな神が想定されてゐるか。
「論理的、理性的に突き詰めてみて、存在しなくてはおかしい神」
「私の意識や意図とは無関係に原初から存在し、この宇宙のあらゆる原則を予め設定した神」
さういふ神の存在を認め信じて、我々は一体どんな人間にならうとするのか。この点は、よく考へてみるべき問題だらうと思ふのです。

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