罪は本当に清算されるのか
このようなとき、地上人がその悪霊人の与える苦痛を甘受すれば、これを蕩減条件として(該当する彼の罪が清算され)、彼は家庭的な恵沢圏から氏族的な恵沢圏に入ることができるのである。 (『原理講論』「復活論」) |
「このようなとき」とはどんなときか。簡単に説明を付記すると、地上人Aは神の恩恵によつて、家庭次元の恵沢から氏族次元の恵沢に移れるときです。ただこのとき、彼に何らかの罪が残つてゐるなら、それを清算することなしに恵沢圏を上昇することはできない。そこで神はAに悪霊を送つて苦痛を与へるといふのです。
『原理講論』のこの説明は、私にとつてかなり納得感の高いものではあります。しかしあくまでも「宗教的な」説明に過ぎない。「神」「悪霊人」「罪」「蕩減条件」「霊界とこの世の関係」など、信仰を要する内容が多いために、万民が俄かに納得して受け入れるにはハードルが高いでせう。
そこでその問題を解きほぐすために、いくつかの課題を考へてみます。
まづ、「罪が清算されなくてはならない」といふのですが、そもそも「罪」とは何か。「堕落論」では、かう定義されてゐます。
罪とは、サタンと相対基準を造成して授受作用をなすことができる条件を成立させることによって、天法に違反するようになることをいう。 |
「天法に違反することで罪が生じる」
といふ考へ方は、基本的にこの世の罪概念と同じです。
この世にも民法や刑法をはじめ、さまざまな法律がある。それらが我々の行動の許容範囲を定め、それを逸脱するとき、その行動を「罪」と規定する。
それなら、その「罪」はどのやうに清算されるのか。
たいていは一定の「罰金」の支払ひ。重ければ懲役刑。それで車で違反をしても、所定額の罰金を払へば違反は帳消しになる。殺人を犯しても、所定の期間を刑務所で過ごして出てくれば、その罪はもはやないことになる。
あると言つてゐた罪が、なくなる。これは一体どういふことでせうか。
罪とは元々「観念」であつて「実体」はないといふことです。「20キロのスピード超過=15,000円の罰金」といふのは、頭で考へた観念に過ぎない。15,000円といふお金も観念なら、スピード超過は罪だといふのも観念。観念によつて観念を裁いたり許したりしてゐることになります。
もちろん、スピード超過するとか、罰金を払ふといつた行為は実際にある。しかしそれらを一定の「等号」で結びつけるのは観念の働きでせう。誰かが「等号」で結びつけ、万民がそれに(嫌々でも)同意するので成り立つてゐるバランスに過ぎない。
さう考へると、天法も観念だし、それによつて規定される罪も観念なら、それが許されるといふのも観念に違ひない。
こゝでも
「ある一定の罪=苦痛を甘受する」
といふ等式がある。
それを神が定め、万民(サタンの含め?)が受け入れる。そのとき、神から始まつた観念が実体を動かす機能を発揮し始めるのです。
『原理講論』はこの観念を自ら創つたとは言はない。神の観念を発見したのだと言ふでせう。それを知つた我々は、それを信じる(受け入れる)かどうかの選択を迫られる。
こゝまでは観念の世界です。しかし問題は、その観念が実体を動かしてゐるかどうかです。苦痛を甘受すれば、本当に私の実体がより良いものに変化するかどうか。これを客観的に確認できれば、信仰とか観念の次元をある程度は脱することができさうに思へます。

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