fc2ブログ
line-height:1.2;

「昨日の私=今日の私」は本当か

kitasendo
等式

中学に入ると、数学で「方程式」を学ぶやうになります。

最も簡単なかたちは、例へば、

2x=6 
なら 
x=3

といふ答へが出てくる。

たいていの生徒は、これに何らの違和感も抱かないでせうね。私もさうだつた。

違和感を抱かないどころか、
「面白い! こんな気持ちのいゝ考へ方があるのか!」
と、感心したものです。

ところが、ごくまれに、この方程式に違和感を覚え、受け入れられないといふ学生がゐるらしい。どんな違和感か。

「どうして、xと3とが同等なんだ。xはアルファベットで、3は数字ぢやないか。これが同じはずがない」
といふわけです。

xと3とがイコールで結ばれると考へるのは、我々の「概念」といふ頭の働きです。それに対して違和感を覚えるのは我々の「感覚」なのです。

我々にはこの「概念」の力がとても大きい。私自身の感じからすれば、日常の生活は「概念」9割、「感覚」1割くらゐの割合で流れてゐるやうな気がします。

例へば、
「昨日の私=今日の私」
と思つて毎日新しい日を迎へることが多い。

これは「概念」による生活感ですね。

しかし「感覚」がちやんと働いてゐれば、この等式に対して違和感を覚えるはずなのです。

「今日の私が昨日の私のまゝであるはずがない。気分も違ふし、血圧だつて同じではない。昨日と同じ人に会つても、絶対に同じ対応なんてしない」

かく言ふ私自身が相当な「概念偏重派」なのだから、偉さうなことは言へない。

「昨日焚いたご飯=今日焚いたご飯」
「昨日行つたイオン=今日行つたイオン」

など、疑つてみるべき等式はいくらでもあります。

「神から見た私の個性の価値=神から見たあの人の個性の価値」
といふ等式はどうだらう。

個人の価値も人権も、神から同等に賦与された基本的な恩恵。これは「概念」として知つてゐることです。しかし「感覚」として分かつてゐるだらうか。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合へ
にほんブログ村
関連記事
スポンサーサイト



kitasendo
Admin:kitasendo