ぼくを洗濯機で洗ってください
あらゆるものはそれ独自の情報を発してゐると言つてもいゝでせうね。喋らないものでも「沈黙のメッセージ」を送つてゐると考へることができます。
例へば、部屋の中に靴下が片方落ちてゐるとします。
それを主婦が見ると、
「ぼくが忘れられてますよ。洗濯機で洗つてください」
といふメッセージをキャッチできたりする。
ところが、旦那さんはそれを一瞥するだけで、
「ぼくはいつまでこゝにほつておかれるのかなあ」
といふ声を聞くかもしれない。
これはどういふことでせうか。
一つのものがいくつもの違ふメッセージを発してゐるやうにも見えますが、実はさうではない。受け取る側がその人なりのメッセージを受信してゐるのでせう。
つまり、メッセージの内容といふのは発する側が決めるのではなく、むしろ受け取る側が決める。メッセージが発せられたときは、あたかも波動のやうに確率があるだけで「これ」と一つに確定してゐない。それが受け手に届いたときに初めて粒子となり、一つに確定する。だから受け取る人によつて内容が違つてくるのです。
これは、ものと人との関係だけではない。人同士の関係でも同様の事態がつねに起こつてゐると思へます。
「私はかういふつもりで言つたのに、誤解された」
といふやうなことはよくあるものです。
私は「自分のあるがまゝ」と思つて接してゐても、相手は「傲慢だ」と感じるかもしれない。メッセージは発する側より受け取る側に最終決定権があるやうに見えます。
この問題は二つの側面から考へることができさうです。
一つは、私のメッセージを相手がどう受信するか。
そしてもう一つは、相手のメッセージを私がどう受信するか。
こゝでは後者について考へてみます。
先ほどの靴下の件で考へると、私が家事に主要責任を持つてゐる主婦なら、置き放しの靴下から「洗濯して」といふメッセージを受信する。ところが、それだけならいゝのですが、それに付随して、「夫はいつもだらしない」といふメッセージまで受診してしまふこともありえるでせう。
これはどういふことでせうか。
テレビ局が発信してゐる放送がテレビに映る原理があります。テレビ局が電波を発信し、それをテレビが受信しなければならないのですが、このとき実はテレビも微弱な電波を発信してゐるのです。テレビ局から出た強い電波とテレビが発する微弱な電波。これが同調するとき、微弱なほうのテレビに強い電波が反映される。
これがチューニングといふものです。我々があらゆるものからメッセージを受信するときにも、これと同様の原理が働いてゐると考へることができさうです。
靴下が発するメッセージは波動のやうにあらゆる内容を含んでゐる。その中から私が受信するのは、私が発してゐる微弱なメッセージと同調するものだけです。だから私の中にふだんから夫のだらしなさに対する不満の波動があれば、靴下からでもそれに同調するメッセージを受信してしまふ。
さう考へると、何を受信するかは、一にかかって私に責任があるのではないか。私の中に夫への不満が何もなければ、靴下からはただ「私を洗濯機で洗つてください」といふメッセージしか受信しないのです。
私が相手をどう見てどう感じるかは、実のところ、相手その人ではなく、私自身を示してゐるといふことになる。

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