fc2ブログ
line-height:1.2;

お釈迦様に訊いてきなさい

kitasendo
ガマリエル

武田邦彦先生が大学で教へてゐる頃、学生から
「このことについて、かういふ意見とあゝいふ意見があるんですが、どちらが正しいんでせうか」
と尋ねられることがあつた。

さういふとき、いつもかう答へてゐたといふ。

「お釈迦様に訊いてきなさい」

風変はりな返答です。どちらが正しいとも言はないで、「お釈迦様に訊け」とはどういふことでせうか。

お釈迦様は最高の智慧のお方だから、お釈迦様に訊けば何でも正しいことを教へてもらふことができさうです。しかしすでにこの世におられないお釈迦様に尋ねることはできない。

つまり、
「答へはどちらとも分からない」
といふことです。

これを武田先生は、
「課題を宙に浮かせておく」

と表現する。

こゝで「お釈迦様」といふのは智慧の象徴であつて、全体を見通せる智慧があれば、本当に正しい答へは分かるかもしれない。あるいは、いつかその智慧に至ることができるかもしれない。しかし少なくとも今の時点では、智慧の乏しい我々には答へは分からない。だから、分からないまゝにしておく、といふことです。

なかなか賢明な方法のやうには思へるものの、いざ実行するとなるとどうでせう。さほど簡単でもなささうです。

といふのは、宙に浮かせておくのは不安でしやうがない。白か黒かはつきりさせないと、気持ちが落ち着かないのです。実際には、自分の考へが正しいと信じるには、それに反する考へを何としても否定し、間違ひであることを証明しなければならないと考へる。

こゝで、聖書の「使徒行伝」の一節を思ひ出します。

イエスの死後、12弟子を中心に果敢な伝道が進められてゐた。その勢ひを恐れたユダヤ教の指導者たちはペテロたち使徒を脅しては、伝道をやめさせようとした。

そのとき、律法学者の一人ガマリエルが仲間たちに向かつて、かう諭したのです。

彼らをどう扱ふか、気をつけるがよい。先ごろ、チゥダが起つて400人ほどが従つたが、結局彼は殺され、従つたものたちも四散した。そののち、ユダが民衆を率いて反乱を起こしたが、これも鎮圧されて消滅した。

そこで私は諸君に勧める。使徒と称する者たちから手を引いてなすがまゝにさせておきなさい。その企てが人間から出たものなら自滅するだらう。しかしもし神から出たものなら、彼らを滅ぼすことはできまい。まかり間違へば、諸君は神を敵にまはすことになるかもしれない。
(「使徒行伝」5:34-39)

これも武田流に言へば「お釈迦様に訊いて来い」といふことであり、「課題を宙に浮かせる」といふことでせう。

このとき反対派はガマリエルの忠告を受け入れ、捕縛してゐた使徒たちを鞭打つたのち、
「今後イエスの名によつて語ることは相成らぬ」
と言ひ渡して許してやつた。

しかし使徒たちは、主の名によつて辱めを受けたことをむしろ名誉と感じて、より一層伝道に励んだといふのです。

そののち神の答へがどうであるか判明するまでに350年以上がかかつた。「お釈迦様に訊く」といふのは忍耐の要ることです。

あなたがたの祈る祈りの種類によっては、それは一千年後に満たされるかもしれません。私はそのような祈りを、一千年、二千年後のためにします。
(「祈祷の重要性」文鮮明 1979.4.15)

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合へ
にほんブログ村

聖書は私の人生を語る
関連記事
スポンサーサイト



kitasendo
Admin:kitasendo