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アートマンは認識できない

kitasendo
アートマン

『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』(飲茶)を通読してみると、改めて
「インド人、中国人、日本人の気質といふか精神構造がこれほど違ふのか」
と新鮮な驚きがあります。

私なりに単純化して言ふと、

・インド人は自己を探求する
・中国人は現実を変へようとする
・日本人は洗練を極める

そんな感じです。


これを見ると、お釈迦様はインドでないと現はれなかつたし、仏教が生まれることもなかつたといふ気がします。

インドにはお釈迦様が現れる前から「ウパニシャッド」といふ相当深い哲学があつた。「梵我一如」といふ言葉で知られるものです。

「梵」とはブラフマン(世界の根本原理)、「我」とはアートマン(自己)です。その二つが同一だと悟つた者は究極の苦悩から解放されると考へます。

しかし「梵」「我」が一体どんなものであるか。それを認識することは容易ではない。

最強の論客ヤージュニャヴァルキヤは
「アートマンとは『認識するもの』である」
と考へる。

その上で、
「アートマンについては『に非ず、に非ず』としか言へない」
と言ふ。

なぜなら、「認識するもの」を認識することはできないからです。

例へば、我々はふつう自分の正体を表現するとき、
「私は〇○(名前)である」
「私は〇○(職業)である」
「私は〇〇家の子孫である」
などと、「である」と肯定的に定義しようとする。

しかし本当の「私(アートマン)」は「に非ず」で(否定的に)表現すべきなのですから、
「私は〇〇(名前)ではない、私は〇〇(職業)ではない、私は〇〇家の子孫ではない」
といふふうに言はなければならないはずです。

つまり、ふつうの我々は本来の自分を真逆に認識してゐる。この「間違つた思ひ込み」に我々のあらゆる苦悩の原因がある。だからこの苦悩から脱するためには、思ひ込みから目覚めなくてはならない。

そこでヤージュニャヴァルキヤは
「それ(アートマン)は不滅のものであり、本性上破壊されないものである。(だからそれは)束縛されることもなく、動揺することもなく、害されることもない」
と言ふのです。

肉体は男であつても、アートマンは男でもなく女でもない。肉体やその性別を超越し、それに束縛されることはない。

「お前の考へはおかしい」
と批判されても、動揺することはない。他人がどう言はうと、私といふアートマンは決して破壊されない。

かういふインド人の気質と哲学がお釈迦様出現の土壌を作つたのは間違ひなささうです。仏教はインドといふ土壌でこそ芽を出した。しかしそれを中国に移植しても、同じ実は生らない。あまりにも気質が違ふからです。

さうではあつても、仏教はともかくインドから東に向かつて中国に伝はり、そこからさらに東へと移動して日本に到達する。それぞれの場所で仏教がどのやうに変化、洗練されていくか。これがまた面白いところです。

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