姿ハ似セガタイ
江戸時代の国学者、本居宣長の言葉に
「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」
といふのがあります。
「姿」を外面、「意」を内面と見れば、真実は逆ではないのかと思へる。人の目に見える外面はいくらでも粉飾して良ささうに見せることができるが、隠れた内面はごまかせない。
ふつうにはそんなふうに考へやすいのですが、よく考へてみればみるほど、宣長の言葉は真実を突いてゐると思ふ。慧眼といふべきです。
例へば、小林秀雄の書いたことに感心して、受け売りで私が書いたとする。このとき、内容(意)はそれらしく似せることができる。しかし書き方、表現の機微(姿)は同じにできない。とても真似ができない。
内容が同じなら表現は多少違つてもいゝではないか。言ひたいことは同じやうに伝わるだらう。さう思ひたいところですが、実際にはそんなふうにいかない。姿の違ひによつて、意味の伝はり方にもインパクトにも雲泥の差が生じるのです。
小説を読むときもさうでせう。それが名作だなあと陶酔するのは、これまで自分が知らなかつたこと(意)が書いてあるからではない。また、筋(意)だけを追ひたくて読むのではない。作家がどこにどんな言ひ回しの工夫(姿)を施してゐるか、その味はひなしには、小説の面白みは半減してしまふのです。
もう一つ、別の例をあげてみませう。
最近、メディアでもネットでも人気急上昇の成田悠輔といふ若手の学者がゐます。東大の卒論が最優秀賞をとつたあと米国に留学して、今では35歳の若さにしてイエール大学の准教授。専門はアルゴリズムを使つて膨大なデータを分析し、より良い政策提言を作成するといふもののやうです。
彼の言論を見てゐると、とても論理的でありながら、これまで常識と思つてきたものを次々に事もなげにひつくり返す。その発想の斬新さが小気味よいのですが、意外にも、それで世の中を変へてやらうといふやうな野心とか使命感を彼はほとんど発してゐない。
生来の彼は物欲も出世欲もきはめて少ない。メディアへの露出も自分から売り込んだのではなく、珍しがられ請はれて出ているに過ぎない。自分はただ自分の好きなことを研究し、それに没頭する喜びで生きてゐる。
結構口も悪いのに、彼の人柄、発言のスタイル(姿)のゆゑに、反発を受けない。彼はただ思ひのまゝに発言するのですが、頭がいゝために、話がむやみに論理的で説得力がある。それが彼の魅力であり、影響力なのです。
彼を見ながら、
「同じやうな内容(意)を言ふにしても、それを言ふ人のスタイル(姿)によつて伝はり方がずいぶん違ふものだなあ」
とつくづく思ふ。
言つてみれば、彼の個性、生活スタイル、発言の仕方、さういふ「姿」そのものが彼の発信力であり、発信そのものなのです。彼以外のほかの誰かが彼と同じ考へ(意)を発信しようとしても、決して彼のやうには受け入れられないでせう。
思ふに、我々が誰かとコミュニケーションするとき、本当にほしいと思つてゐるのは、単なる「情報」(意)ではないのです。「情報」だけなら、今やAIがより的確で膨大なものを提供してくれるかもしれない。人が本当に魅力を感じるのは「意」よりもむしろ「姿」ではないかといふ気がします。
教会の伝道も、これまでは「原理」といふ「情報」(意)を伝へることに重きをおいてきた。それさへきちんと論理的に伝へれば、相手はそれを理解し、受け入れてくれるはず(べき)だと思つてきたのです。
ところが今になつて気がついてみると(といふより、以前から誰でも薄々気づいてゐた通り)、人が本当に惹かれるのは「情報」としての「原理」ではなく、「姿」としての「原理」だつたのではないか。
それを伝へようとしてゐる人が、その「原理」によつてどんな考へをし、どんなスタイルで生活してゐるか。それが「姿としての原理」です。その「姿」に魅力があれば、成田さんと同様、「これで相手を変へよう、世の中を変へよう」と力まなくても、結局は相手に実質的な感化を与へるのではないか。

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