オムツを替へる人の天国
6月頃から毎月1回1週間ほど、おばあちやんを介護施設で預かつてもらふやうになつた。今月もお世話になり、今日の午後、1週間ぶりに帰宅。
施設のかたに聞くと、結構動いて大変だつたやうです。帰宅後も落ち着かず、自分の兄弟や孫の名前を呼びながら、ベッドの上をぐるぐると回り続ける。
しばらく用事をして見に行つてみると、ベッドから手足を伸ばして障子を何枚も破つてゐる。張り直さうと準備をしてゐると、今度は反対側からベッドを降りて、そばに置いてゐた簡易トイレを倒してしまふ。
動きはなほもとまらず、這ひながら廊下に出て、いろいろな人の名前を呼び続ける。私の名前も呼ぶが、かういふときはまともな話が通じないから、しばらくは動くにまかせて放つておく。
そのとき、思ひがけない人から電話が入つたのです。
21年前、妻が聖和して間もなく、私は妻の遺稿集を自費出版したのです。それを知人友人にだいぶ配つた。
その遺稿集をたまたま久しぶりに読んだと言つて、昔一度だけ会っつたことのある人が、教会で電話番号をわざわざ聞いてかけてこられた。遺稿集を渡した後しばらくは、ときどきメールでやりとりがあつたものの、こゝ10年あまり互ひに音信不通だつたのです。
懐かしく話してゐる間も、廊下ではおばあちやんが誰かの名前を呼んでゐる。
すると電話の人が、
「誰か、お子さんの声が聞こえますね」
と言ふ。
「いや、あれは子どもぢやなくて、母です。認知症で、ときどき手を焼いてゐます」
さう伝へると、こんな話をされるのです。
「昔、文先生のみことばでね、『年老いた自分の父母のオムツを替へたことのある人は、間違ひなく天国へ行く』つて。認知症は大変でせう。よくやりますね。頑張つてください」
ショートステイから帰るなり、障子を破り、床をトイレの水で濡らす母にやゝ神経が疲労してゐた私に、この言葉は慰みにもなり、ありがたく響いた。しかし、ゆつくり考へてみると、このみことばの意味は何だらう。電話を切つたあとで、少し物思ひにふけることになつたのです。
私は確かに、おばあちやんのオムツを毎日替へる。ときにはうんちまみれのこともある。しかしこんなことをするのは、べつに私ばかりではあるまい。紙オムツもない時代にも、どれだけの人たちが父母の下の世話をしただらう。カルカッタの聖女たちは、見ず知らずの人の死に際の世話をしてゐる。
さういふ人たちから見れば、私のやつてゐることはたいしたことではない。それでも、天国に近づくのだらうか。
いやそもそも、父母のオムツを替へる人が天国に行くと言ふなら、それは『行為』が天国の条件になるといふことではないか。私が学んできた天国は、行為によらない。霊人体が成長し、生霊体になつた人が天国人になると学んだのです。
さうだとすれば、文先生のみことばはどう理解すればいゝのだらう。
「年老いた自分の父母のオムツを(喜んで、あるいは感謝して)替へたことのある人は…」
と補足したらどうだらう。
あるいは、
「他人の父母でも、自分の父母のやうに(喜んで、あるいは感謝して)オムツを替へたことのある人は…」
とすればどうか。
オムツを替へると言へば、替へる側が恩を売るやうに思へるが、本当はさうではないかもしれない。「替へる」と思つてゐるが、本当は「替へさせてもらふ」。真実はさういふことかもしれない。

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