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真の主人とは

kitasendo
鉢植え

ある時期、毎朝1時間から1時間半くらい、瞑想を続けたことがあります。
最初の30分くらいは、なかなか心が静まりません。
いろいろな雑念が生起してきて、一点に集中できにくいのです。

それを過ぎると、だんだんと呼吸が静まり、とても気持ちが良くなってきます。
そういう段階になると、自分でも思いがけないような思いが湧いてくることがあります。

その思いにも、2通りあることに気がつきました。

1つは、
~はこうなんだよ
というような感じで、上から降りてくるような思い。
神様か高い霊界から一瞬にして降りてくるような感じで、
間違いなく、そうだ
という確信を伴っています。

もう1つは、
~はこういうことなんだな
というような感じで、自分の胸の中から湧き上がってくるような思い。
これは、時間をかけて、少しずつ形ができていくように、段々と分かってきます。

2番目のケースで、ある日、次のような思いを得たことがあります。

瞑想する時、前のテーブルに鉢植えの花を置いていた時のこと。

この花と話をすることはできないだろうか?
という思いが湧いてきたのです。
しかし、いくら花をじっと見ても、花と話せそうには思えません。

「どうして、私は花と話せないのだろう?」
と思いながら瞑想を続けると、
花に向かって、『お前が人間の言葉を使って話せ』と言っても、それは無理な話だ
という思いがきます。

花が人間の言葉を話すことはできない。
花と話そうとすれば、私が花の言葉を話さなければいけない。
そのためには、私が花の気持ちを理解し、その言葉を研究しなければいけない。

これはどういうことか?
私が花の主人になろうとすれば、花に向かって、
「お前が主人の考えと言葉を理解して話してこい」
と言うのではなく、
私がお前の気持ちと言葉を理解してやろう
と、自分の方から花に近づいていかなければならない、ということのようです。

文鮮明先生の言葉に、
真の主人は、まず先に仕える者である
とあります。
これが、本来の「主人」の定義であり、本来の姿なのでしょう。

考えてみると、親は子どもを育ててやる主人のように見えますが、世話をすることは、実のところ、僕(しもべ)のような立場です。

うんちのついた、くさいおむつを替えてやる。
夜中に何度も起きては、赤ん坊にお乳をやる。

これは相手が自分の子どもでなければ、僕がやるような仕事でしょう。
親はそれを悔しいとも思わず、むしろ、喜んでやるのです。
親がそのようにしてこそ、後に子どもは親に感謝するようになり、親の願うことにでも従いたいと思うようになるのです。

本当の主人とは、
お前が私のためにせよ
という者ではなく、
私がお前のためにやってやろう
という者である。


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tenmondai

納得できる内容ですね。

「私がお前のためにやってやろう。」今までこの思いを持てずにいました。会社での人間関係で悩んでいますが、実践してみることにします。

2009年11月01日 (Sun) 22:53
管理人kitasendo

tenmondaiさん、投稿有り難うございます。
自分の子どもに対しても、自分は本当の主人になっているだろうか?と、よく考えます。
挨拶も、先にした方が主人ですね。
主人は相手に左右されない。

2009年11月02日 (Mon) 08:27
kitasendo
Admin:kitasendo