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言葉のふるさと(4)

kitasendo
松坂さん

福田恆存は言う。「言葉は文化のための道具ではなく、文化そのものであり、私たちの主体そのものなのです」。
かれは、国語審議会に入っている表音文字主義者の松坂忠則に問う。「松坂さん、気を確かにもつてください。タイプライターのための文字か、文字のためのタイプライターか」
(『日本語が亡びるとき』水村美苗)

福田恆存は「言葉は文化そのものである」と考へた人です。

彼が世の情勢を見ると、「言葉は文化のための道具である」と見なす方向へ流れており、これに抗ふ人があまりに少ないので、たまりかねて『私の国語教室』を上梓して世に問ふた。この書の中で彼は、表音文字主義がいかに日本語を軽んじており、言葉の意識をいかに破壊してゐるかを諄々と説いたのです。

表音主義を唱へる人は明治初頭以来、途切れたことがない。さういふ人は、例へば、日本語をこんなふうに書くことを理想とする。

われわれわひょーおんしゅぎおてーしょーします。

いくら何でもこれはひどすぎると思はれるでせう。これを「表音式かなづかい」と呼んだのですが、戦後、文部省は「新かなづかい」と呼称を変更する。そして「伝統的かなづかい」を「旧かなづかい」と改める。「旧」よりは「新」がいゝでせうといふわけです。目くらましではなからうか。

実は私も十九になるまで「新かなづかい」が現代唯一のかなづかひと思ひ、何の疑念も不安も抱いたことがなかつた。ところが、福田の『私の国語教室』に出会つて、ハッと目が覚めた気がしたのです。


以来、表に出す文では「表音式かなづかい」でいく一方、日記や私信では「伝統的かなづかひ」で暮らすやうになつた。このブログも読者を想定するものだから、当初は表音式に従つてゐた。しかし数年前、意を決して伝統に戻ることにしたのです。

ときどき
「読みにくい。せつかくの内容が損してますよ」
といふやうなコメントが届いたりします。

さうだらうなあとは思ふ。自分の趣味を人に押しつける勝手な所業かと時に自戒しながらも、しかし今のところ、このかなづかひを離れる気にはならない。

なぜか。

「伝統的かなづかひ」のいゝところは、「語に従ふ」といふ点です。表音主義が「書き言葉は話し言葉の音を文字に移したものにすぎない」と考へるのに対して、書き言葉は「語に従ふ」べきものと考へる。

いくつか例を挙げてみませう。

「遠い」は新かなづかいでも「とうい」と書かずに「とおい」と書く。「行動」は「こうどう」と書くのに、「氷」は「こおり」と書く。音に従ふと言ひながら、一方では語にも引つ張られてゐるのです。

この中途半端さは、
「私は本を読む」
にも現れる。

表音主義ならなぜ
「私わ本お読む」
と表記しないのでせうか。

新かなでは「こうして」と書くところを、伝統かなでは「かうして」と書く。「かうして」なら「かくして」といふもとの語が偲ばれますが、「こうして」では何のことだか分からない。

近代日本の国語教育には深刻な「設定ミス」があつたと、水村さんは言ふ。

国民全員を「書く主体」にしようとした。これが「設定ミス」です。この設定では、誰でも書ける文章を目指すことで、日本語は確実にレベルダウンするしかないのです。

どう設定すべきだつたのでせうか。

国民全員を「読まれるべき言葉」を読むことのできる国民に育てる。言ひ換へれば、「文化を継承する」。かう設定すべきだつたのです。

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