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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

言葉のふるさと(2)

2022/09/14
読書三昧 0
森有礼

毎年「世界大学ランキング」なるものが公表されます。

2022年版を見ると、ベスト10の中にイギリスの大学が2校で、あとはすべてアメリカの大学。ベスト30ではイギリスが5校、アメリカが19校。その隙間にスイスや中国、カナダなどが数校食ひ込んでゐるといふ状況です。日本の大学では東大が35位で最高位につけてゐるに過ぎない。


専門的な分析はできないものの、このランキングに大きな影響を与へてゐるのは、明らかに「言語」ではないかと思へます。

「言語」から考へればイギリスとアメリカは英語を母国語とする。数ある世界の言語の中で英語は今や「普遍語」の地位をほぼ確立しており、その通用力は他を圧倒してゐる。イギリスとアメリカが優位に立つのは明らかなことです。

ランキングの評価基準の中で、「研究」分野が30%を占めてゐます。それぞれの大学の研究者がどれくらゐの論文を発表してゐるか。そしてその論文の影響力(例へば他の論文への引用数など)がどれくらゐあるか。さういふ指標を使つて評価するわけです。

「普遍語」が世界ルールの基準を決める。すると、世界の研究者は「普遍語」で勝負するしかないでせう。

英米の研究者は当然英語でそのまゝ論文を書ける。一方、日本の研究者は日本語が一番書きやすいが、それでは日本人以外、世界の誰も読めない。読めなければ引用もしないから影響力もない。だから母国語ならざる英語に翻訳して勝負するしかないのです。

これは勝負のルールにもともとハンデが課せられてゐるやうなものです。あるいは、ヘビー級とフライ級が一つのリングで戦ふやうなものと言つてもいゝ。

かういふ問題は『日本語が亡びるとき』の中で水村美苗さんが的確に分析してゐる通りで、明治以降、日本人は相当苦労してきたのです。

圧倒的な力を有する欧米と伍していくために、英語を「公用語」にする選択肢もあつた。実際、明治政府の初代文部大臣、森有礼などはそれを主張してゐます。

しかし日本は結局その道を選択せず、欧米語をせつせと漢語に翻訳する方向へ多大な精力を注いだ。その結果、欧米の文芸も思想も科学技術も、そのほとんどを日本語で習得できるといふ、非西洋圏では稀有の国となつたのです。

ごく少数の優秀なバイリンガルが欧米語(特に英語)を見事に訳してくれる。そのお蔭で、多数のモノリンガル(多少の英語は分かるが)は母国語だけで世界の「図書館」にアクセスできるといふ恩恵に浴することができた。その恩恵を当たり前のやうに思つてゐた。

しかし今こゝにきて、岐路に立つてゐると、言へなくもない。

このまゝ東大35位でよしとするか。それとも、もつと思ひ切つて英語圏に参入していくか。

文科省は小学校からの英語教育を進めようとしてはゐるものの、英語を公用語にしようといふほどの意気込みはない。「英語で日常会話に不自由しない程度に」といふのは、いかにも中途半端な感じがします。

一方、経済的に余裕のある家庭では、子女を英語漬けの塾に通はせたり、海外留学までさせたりして、世界水準のバイリンガルにしようとするところもあるでせう。それぞれの見通しですから、それも悪いとは言へない。

しかし私は(そして水村さんも)、それよりも「国語」教育にもつと本腰を入れたほうがいゝのではないかといふ意見です。

我々の精神は、豊かで安定した文化の中で呼吸できてこそ、健全に育つ。それなら、文化とは何か。

前回の記事「
言葉のふるさと」で引用した水村さんの言葉、
「文化とは、〈読まれるべき言葉〉を継承することでしかない」

とするなら、その文化をどのやうに保つか。「国語」教育の中で〈読まれるべき言葉〉をふんだんに教へ、それに自らアクセスしようとする人の数を保つやうにするしかないでせう。

水村さんが提言する「国語」教育。それについて、次回紹介します。

↓ この動画なども参考になります。



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