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己の姿は他人の中にしかない

kitasendo
己の姿

お釈迦様の言葉に
「他人の中に己を見よ」
といふ教へがあるさうです。

これと似た言葉で
「他人を通じて己を知る」
といふ心理学的な考へもあります。

例へば、カール・ユングは
「他人に対して感じる『いらだち』や『不快感』は、自分がどんな人間なのかを教へてくれる」
と言つてゐます。

これはどういふことか。

誰かの言動に対して私が「苛立ち」や「不快感」を覚えるのは、私自身がその相手のやうな人間であることを示してゐる。つまり、自分の中にもその相手と同様の欠点があるために、相手の欠点が気になつてしやうがない。

さういふ意味で、「他人を通じて己を知る」ことができるといふわけです。

しかし、お釈迦様の言葉はこれとよく似てゐるやうでゐて、どこか違ふ。

「他人なくして、私は自分を知ることができるか」
といふ自己認識の本質をふくんだ洞察のやうに思へます。

お釈迦様の言葉を少し言ひ換へてみませう。

「己の姿は他人の中にしかない」

聖書のはじめに、よく知られたかういふ聖句があります。

神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
(『創世記』1:27)

これを読むと、神ははじめから自分がどんな姿をしてゐるのかをよくご存じの上で、その姿に似せて人間を造つたといふふうに読める。しかし、さうではないかもしれない。

神は人間を構想し創つてみてはじめて、
「あゝ、自分はこんなかたちをしてゐたのか」
と分かる。

男と女とに創り分けてみてはじめて、
「あゝ、自分には男の要素と女の要素があるのか」
と分かる。

神は純粋霊として無形であり、そして何より、創造前、唯一自分のみが存在するときには自分の姿を自覚認識することができない。だからある意味では、神は自分が一体どんな姿かたちをしてゐるかを、あたかも鏡に映して見るがごとく知るために「自分のかたちに似た有形の人間」を創造した。

まさに
「己の姿は他人の中にしかない」
のです。

この原理は、無形ならざる我々においても、基本は同じだと思ふ。

我々は「他人を通じて己を知る」といふより、「他人の中にしか己を知る方法はない」。言ひ換へれば、自分を知るには他人が絶対に必要だといふことです。

私が誰かの言動にふれてイライラしたり、不快に思つたりする。さういふ反応をすることを自覚してはじめて、「あゝ、自分はかういふ人間なんだな」と分かる。その意味では「他人を通じて己を知る」のです。

しかし、こゝにはそれ以上の意味がある。

もし私の前にその人がゐなければ、私はイライラする自分を発見できない。「他人を通じて己を知る」といふよりも、その人の中にしかイライラする私はゐないのです。

私がその人の言動にイライラするとき、
「私はその人によつてイライラさせられてゐる」
と思ふのですが、本当にさうだらうか。

真実は、私がイライラすることによつて、その人が「私をイライラさせる人」にさせられてしまつてゐる。その人と私との関係は、常識と真逆なのです。

結局、私はその人を見ながら
「この人はこんな人だ」
と思つてゐるのですが、実は
「私はこんな人だ」
と判断すべきだといふのが真実ではないかと思ふのです。

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Admin:kitasendo