甘受するのが最も賢明である
前回の記事「彼の問題の原因は私にある(かも)」で書き切れなかつたことを書き足してみます。
友人が悩みを相談に来る。その悩みは、今生の私(今肉体を持つて生きてゐる私)にとつては他人ごとかもしれない。しかし本当の私(永遠に生きる本体としての私)にとつては、他人ごとではない。私にも彼の悩みの原因があるからこそ私のところにその相談がやつて来るのに違ひない。さう考へました。
友人の悩み相談なら、まだそれほど厄介ではない。しかし、友人ではなく、私とそりが合はない人がやつて来て、私には無縁と思へる問題でとばっちりをもたらしたらどうでせうか。
さういふ場合でも、その問題は私に原因があると考へて対処すべきでせうか。これはなかなかキツイですね。
どう対応すべきか。
これについて『原理講論』では、
「甘受するのが最も賢明である」
と教へてゐます。
この「甘受」といふことについて、私はずいぶん昔から考へてきてゐるのですが、こゝで改めてその意味を押へておかうと思ひます。
「甘受」とは「甘んじて受ける」といふことですが、決して受動的なものではない。嫌だけど、抵抗しきれないので、仕方なく受け入れる。さういふものではないのです。
私の人生に問題がやつてきたとき、
「よく来ました。あなたが来てくれたことに感謝します」
と言つて、積極的に感謝しながら受け入れる。
それを「甘受」と言ひます。
私にやつて来る問題の原因は何か。そんなことは、「今生の私」に分からないことはもちろん、「本当の私」にも分からないことが多いのです。
原因は分からないけれども、さういふ問題を引き受けるべき課題が私にあるといふことを、その問題は無言のうちに教へてくれてゐる。自分がどんなに頭を絞つて考へても分からないことを、問題が目に見える形ではつきりと教へてくれるのです。だからありがたい。「感謝」なのです。
さうだと分かれば、この絶好のチャンスを逃す手はない。その問題を憎んだり忌避したりせず、私の人生に迎へ入れたほうがいゝといふことになります。
もちろん、いくら頭で感謝だと思つても、心では抵抗するでせう。
「どうしてこんな問題に巻き込まれるんだらう。厄介だな。何とかうまく回避する道はないだらうか」
と思ひを巡らせるものです。
しかし「甘受」しようと心を定める。抵抗して逃げ回るより、繰り返し「ありがたう」と言ひながら、その問題、あるいはその問題をもたらした人と和解しようと努めることです。
和解の努力を続けていくと、受け入れられる感じがだんだん強くなり、あるとき、その問題あるいは問題の人に対して「敵対感情」が消える体験をします。
さうすると、まつたく思ひがけない方法でその問題が解決してしまふことがある。あるいはすぐに解決しなくても、自分がどう対応していくべきか、内的にも外的にも道筋が段階的に見えてきます。
これが「蕩減条件が立つ」といふことだらうと思ふ。
その地上人(私)が、この悪霊の業を当然のこととして喜んで受け入れれば(甘受すれば)、彼(私)は自分かあるいはその祖先が犯した罪に対する蕩減条件を立てることができるのであるから、その罪を清算し、新しい時代の恵沢圏内に移ることができるのである。 (『原理講論』復活論第二節) |

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