彼の問題の原因は私にある(かも)
私は一体何者かと考へると、私は〇〇〇(自分の名前)なのか。さうではないやうな気がします。
私は男として生まれ、生まれたときに親からこの名前をもらひ、今までこの名前で生きてきた。それで私は〇〇〇以外の者ではありえないと思ひ込んでゐます。しかしこれはどうも疑はしい。
例へば、私に親しい友人がゐて、彼が何かの問題に遭遇し、悩んで私に相談してきたとします。そのとき私はうんうんと頷きながらその悩みを聞き、何か慰めやアドバイスができればしようと考へる。
そのとき、彼の悩みはあくまでも彼の問題であつて、私の問題ではない。問題の原因も私にはなささうなら、彼の問題に対して私はどこまでも第三者である。ふつう、さう考へますね。
ところが、彼が自分の悩みを私に相談してきた時点で、実は彼の問題は私の問題にもなつてゐる。さらに言へば、彼の問題の原因は私にある。私の中の何らかの要素が原因となつて、彼にその問題が起こつてきた。
最近の私は、さういふ考へ方をするのです。
もちろん、直接的な原因はなささうに見える。私の少しも与り知らぬところで彼の悩みは生じてゐるやうに見える。しかしそれは、〇○○といふ名の私にとつての話なのです。
もし本当の私が○○○でないとしたらどうでせう。
本当の私には名前がない。○○○といふのは今生の名前であつて、それは謂はば、今生において本当の私が一時的に乗り物として借りてゐる体につけられた名前にすぎない。
私の体は今生において数十年生きて、そのあとは消えてなくなるものです。しかし本当の私は永遠の昔から永遠の未来まで、時間を超越して存在し続ける。
そのやうに考へれば、今生では友人の悩みの原因は私の中にないやうに見えるが、本当の私の中にはあるかもしれない。いつ、どこでその原因を作つたかは分からないながらも、その可能性はある。
もしもその人が私の友人ではないとする。友人であつたとしても、その悩みを私に相談しなかつたとする。さういふ場合なら、彼の悩みの原因は私にはない。もし万が一、原因があつたとしても、その悩みを知りもしない私には責任の取りやうもないでせう。
しかし、その悩みは私のところに持ち込まれた。すると、それが持ち込まれた時点で、私の中に原因があるといふことが疑はれるのです。なぜなら、私に何の関係もないことが私の人生に持ち込まれるとは思へないからです。
それを仏教では
「袖すり合ふも他生の縁」
と表現しました。
同じことを『原理講論』では、
「復帰摂理歴史が長い期間を通じて、縦的に要求してきた蕩減条件を、『私』自身を中心として、横的に立てなければならない」(緒論)
と指摘してゐます。

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