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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

神に願はず、私が近づく

2022/09/04
信仰で生きる 0
過去の知識

いついつ、どこで、誰と会ふ予定がある。その予定が重要なものであればあるほど、その予定日までの間、うまくいきますやうにと毎日繰り返し祈る場合があるでせう。

私も祈ります。ただ、祈ると言つても、そのやり方はいささか風変はりかもしれない。ふつうなら、どんな準備をして、どんな態度で、どんな話をするかと考へながら祈るでせう。

しかし私の祈りはそんなふうではない。むしろ「どんな」といふ考へを持たないやうに意識する。

「『どんな』といふ考へ」は、私なりの考へだと思ふ。「こんなふうにしよう」といふのは、私なりの目論見です。私は、自分なりの目論見はあまりよくないと思ふのです。

なぜ、さう思ふのか。

自分なりの目論見は、今の自分が所有してゐる過去の経験とか知識などに基づくものです。それによつて、このやうにすればベストだらうと、自分なりに考へる。

「あの人はかういふ人だから、こんなふうに話せば喜び、納得してくれるだらう。これまでもこのやり方でうまくいつた」
などと、頭で構想を立てていくのです。

しかし過去の経験とか知識は、却つて自分の考へや行動を縛る。過去に縛られない、新しいものを生み出す可能性をむしろ閉ざしてしまふやうに思ふのです。

思ひがけない展開、過去を超える賢明な行動は、単なる過去の焼き直しからは期待できない。

だからできるだけ目論見を消して、ゼロにならうとします。「あゝしよう、かうしよう」といふ考へをなくして、ゼロの状態の自分としてその場に臨まうと思ふのです。

どんなふうに祈るのか、一例を記してみませう。

まづ、場所を確認する。建物の中で会ふのなら、その建物の名前も確認する。そしてそれを好きとも嫌ひとも言はず、自分の中で受け入れ、自分の友だちにします。

次に、会ふ人の名前、年齢、職業などを確認する。初めて会ふ人だとしても何らかの情報はあるでせうから、それによる先入観が必ず作られます。これまでに何度も会つた人であれば、先入観はもつと強いので、さらに厄介です。

先入観がポジティブなものであれネガティブなものであれ、それをゼロにする努力が必要になります。

その人の名前を確認しながら、
「私は〇〇さんを、私の人生に受け入れます。私の人生に登場してくれて感謝します。ありがたう」
と、自分に言ひ聞かせます。

もちろん、特にネガティブな先入観は、こんなことですぐに変はるほどやわではない。それで毎日、その人の名前を思ひ出すたびに、この言ひ聞かせを繰り返すのです。

予定が決まつたらすぐに、1週間なら1週間、1ヶ月なら1ヶ月、長ければ長いほどいゝ。ともかくできるだけ先入観を消し去り、ゼロの状態に近づくやうにします。

神はゼロの場所におられる。その場所に近づけば近づくほど、神からの作用が強く働くやうになります。神に願ふのではなく、私が神に近づくのです。

だから、この祈りの作業はただ単に一つの予定を成功させるためだけが目的ではない。私が自分の人生で出会ふあらゆる人、あらゆる事態を受け入れ、消化(昇華)し、蕩減復帰を進めていくプロセスだと思ふのです。


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