日本より広いのは…
すると男が、かう云つた。 「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より…」で一寸切つたが、三四郎の顔を見ると耳を傾けてゐる。 (『三四郎』夏目漱石) |
有名な国民的小説の出だしに近い部分の一節です。
「男」といふのは、髭を生やした四十がらみの風采の上がらない人物。三四郎が帝大に入るために故郷熊本から東京に向かふ汽車の中で乗り合はせた。
偶々隣り合つたのですが、上京したのち親しく交流することになる。よく知つてみると、外見とは裏腹に、第一高等学校の英語教師をする広田といふ名の相当なインテリだと分かります。
風采は上がらないが、熊本の田舎では聞いたことがないやうな話をするから、三四郎は思はず耳を傾けてゐる。「日本より…」のあとに、何が続くか。
ふつうに考へれば、
「日本より世界は広い」
と続きさうに思ふでせう。
ところが広田先生の話は、思ひがけない方向へ行くのです。
「日本より頭の中の方が広いでせう」
と言ふのです。
物理的な広さの話かと思つてゐたら、急に次元の違ふ話に転換する。
広田先生は英語教師だけあつて、洋書には造詣が深い。ただ留学経験がない。当時帝大で講師の職を得るには留学経験が必須だつたやうです。だから高校の英語教師に甘んじてゐた。
しかし、留学経験こそないものの、頭の中は日本はもとより、優に西洋世界を内包してゐる。どのやうにしてか。
英語が堪能であれば、西洋が二千年あまりかけて営々と積み上げてきた知の図書館に、書物を通じていくらでも自由に出入りができる。(体は)日本にゐながらにして、(頭は)日本をわけなく超えてしまふのです。
広田先生の一言を聞いたとき
「三四郎は真実に熊本を出た様な心持がした」
と漱石は描写してゐます。
広田先生は日本を超えると言つたのに、三四郎はやつと熊本を超えるところにゐたといふことでせうか。なかなか面白い描写です。
頭はそんなふうに段階的に成長するのでせう。
頭が成長すると同時に、心も成長したいものです。頭が知の図書館に出入りしながら成長するやうに、心はその許容の幅を広げることによつて成長する。例へば、苦手で許容できなかつた人を許容できるやうになる、愛せなかつた人を愛せるやうになる、といふふうに。
さういふとき、三四郎にとつての広田先生のやうに、一歩か二歩くらゐ前を行つてくれる人がゐれば、その人に倣ひながら進めるでせうね。

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