無意識は体にある
「無意識は体にある」
あるいは、
「体は無意識からできてゐる」
と言つてもいゝかもしれない。
「本音」と「建て前」といふ言ひ方があります。「建て前」は表面に出てゐて見える。それに対して「本音」は奥に潜んでゐて見えにくい。ふつうにはさう考へます。
しかし実は逆で、「建て前」は外からよく判別できず、「本音」は正確に読み取れる。
少し具体的に考へてみませう。
私とAさんが面と向かつてゐるとします。Aさんは私のことを尊重して丁寧な態度で接してくれてゐる。それだけみれば、Aさんは私のことを好ましく思つてくれてゐると見えます。
ところがそれはもしかしてAさんの「建て前」かもしれない。本当はあまり好きでもなく尊重もしてゐないのに、表向きトラブルを避けるために丁寧に接してゐる。その可能性もあるわけです。
しかしそれが本当にAさんの「建て前」であるのかどうか、判別は難しい。なぜ難しいかと言へば、それはAさんが頭の中で(つまり意識で)考へて取つてゐる行動だからです。
他人が頭の中で考へてゐることは、私には分からない。他人の頭の中は私にとつてブラックボックスなのです。
これはどういふことか。
意識といふのは、個人個人で閉じてゐる世界です。私には私の意識世界(これを私は「私の中の世界」と呼んでゐる)があり、AさんにはAさんの意識世界があつて、それは互ひに閉じてゐる。だから、相手が今何をどんなふうに考へてゐるかは、(超能力でもない限り)基本的に分からないのです。
ところが、「本音」は「建て前」よりも意外とよく分かる。なぜなら「本音」は体に現れる場合が多いからです。無意識は意識よりもすばやく、しかも思つたまゝ正直に動き、意識ではごまかし切れないのです。
例へば、Aさんがいくら言葉で「私はあなたを尊敬してます」と言つても、「本音」でさうでなければ、その「本音」は体の細かな仕草に現れてしまふ。我知らず目を背けたり、掌に汗がにじんだりする。それを見落とさなければ、「本音」は意外と「建て前」よりよく分かるのです。
このことから、「意識」が閉じた世界であるのに対して、「無意識」は開いた世界であるとも言へさうです。開いてゐるから、お互ひに通じ合ふ。
ところが、こゝで私が気になることがあります。そのやうに分かる「本音」のその奥に、さらに深く隠れた「本音」があるのではないかといふことです。
上の例で言へば、Aさんは表面的な「本音」では私を嫌つてゐる。しかしなぜ嫌ふのか。奥にあるその「本音」は多くの場合、相手に分からないのはもちろん、自分でもほとんど気づくことができないのです。これは自分でも分からないといふ意味で「闇」と呼んでいゝかもしれない。
特定の宗教を信じる人であれ、スピリチュアル系の人であれ、この深い「本音」の鍵をあけることが願ひだと思ふ。「罪の蕩減」といふのも、こゝを解放することではないか。

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