私は神になつた
キリスト教、イスラム教、仏教を、現代の三大宗教とすれば、禅学者の久松真一はそれらを二つに分類した。
キリスト教とイスラム教を「信」の宗教、仏教を「覚」の宗教に分けたのです。この分け方が唯一といふわけではないが、こゝではその見地から考へてみることにします。
「信」の宗教は唯一絶対の創造神を「信」ずる。その神は私が存在するはるか昔から存在し、今なお宇宙全体の主宰者として、どこか私の与り知らない御座におられると「信」ずる。
それに対して「覚」の宗教は、唯一神の概念が明確ではなく、その代はりに自分の中の「仏性(神性)」を追求し、「覚醒」しようとする。そして「絶対」といふやうな観念を、むしろ嫌ふ。
もつとも、このやうに分けてみたとしても、「信」の宗教に「覚」の要素がないわけでもなく、「覚」の宗教に「信」の要素がないわけでもない。二つを画然と分けることはできず、両者が混然と溶け合つてゐるといふのが実際でせう。
そこで、「統一原理」はどうだらうと考へる。
これは「聖書」的な神観を真理探究の根本に置いてゐる。神は唯一絶対であり、宇宙の原理原則を太初に定めた。我々人間を含めた森羅万象はその原理原則に従つてこそ存在できるし、そのやうな神は私とはまつたく独立に存在される。
神は歴史的にも、今でも、摂理を推進される主体である。原理の主管者としてつねに我々を見ておられる。
だから久松氏の分類に従へば、それは「信」の宗教である。私は長い間、何となくそのやうに考へてきたやうな気がします。
そのやうに思ふから、祈るときは神を自分の頭上のどこかに想定して、「天の父なる神よ」と祈つてきたのです。そしてその祈りは思ひあるいは言葉として神に届き、それに対する答へも思ひあるいは言葉として返つてくるだらうと思つてきた。
ところが最近、よく考へてみると、「信」よりもむしろ「覚」の要素が強いのではないか。さういふ気がするのです。
例へば、「創造原理」にかういふ記述があります。
アダムとエバが完成された夫婦として一体となったその位置が、正に愛の主体であられる神と、美の対象である人間とが一体化して、創造目的を完成した善の中心となる位置なのである。ここにおいて、初めて父母なる神は、子女として完成された人間に臨在されて、永遠に安息されるようになるのである。 (創造原理第2節) |
こゝでいふ「臨在」とは、「内在」と言ひ換へてもいゝでせう。人間が完成すると、神が人間の中に「内在」されるやうになる。
これは神の側からの表現なのですが、我々人間の側から表現すると、どうなるでせうか。
「私は神になつた」
さう感じるのではないでせうか。
神性(仏教で言へば「仏性(ぶっしょう)」の自覚です。つまりこれは、あまりにも明らかに「覚」の宗教です。
「私は神になつた」と言へばあまりに傲岸不遜なやうですが、さうではない。自分本来の「本性(ほんせい)」の自覚であつて、本当の自分を知つたといふことに過ぎないのです。
そしてさうなると、もはや形式的な祈りは不要になる。私と神とがそれぞれ自分の思ひを言葉に変換してやり取りするといふやうな面倒な手続きは要らない。
まさにイエスが言はれた
「私が父におり、父が私におられる」
といふ境地になるでせう。
神は私を愛する対象として必要とも言ふが、さういふ話ではありません。私が神になるのだから、私なしには神は存在の意義がない。もしかすると、存在すること自体ができない。それが「私」だといふことになります。
もちろんこの境地がたやすく到達できると言つてゐるのではありません。私が拠り所としてゐる教へが「信」よりもむしろ「覚」にフォーカスを当てたものである。さう理解することによつて、「原理」の理解に深みが増し、私の日々の生活にこれまでとは違つた気概が生まれるのではないかと思ふのです。

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