感謝を食べる
「ちり」は神から呪はれた食べ物であるのに、今の我々はむしろ喜んで、率先して食べてゐるときがある。もつと体によく、栄養のある食べ物が他にあるのに、どうして自ら好んで毒を食べるのだらう。 (当ブログ「ちりを食べるな」) |
エデンの園で罪を犯した蛇を神が呪つて、
「お前はちりを食べて生きる」
といふ宿命を与へた。
その「ちり」とは文字通りのちりではなく、比喩的表現であると見れば、それはドイツ語でいふ「Schadenfreude(シャーデンフロイデ)」、すなわち「人の不幸を喜ぶ」といふことです。
「人の不幸を飯の種にする」
と言つてもいゝでせうか。
人の不幸は一口目こそ甘い蜜の味がするものの、実は毒である。それで神はそれを「ちり」と呼んだのだと思はれます。
それなら、「ちり」より他に、もつと体によく栄養もある食べ物があるのか。あるのなら、それは何か。
「感謝」といふ食べ物がそれではないかと、私は思ってゐるのです。
私が「ホ・オポノポノ」といふ問題解決手法から学んだことの第一は、
「私が今こゝにゐる第一の理由(目的)は、私自身を浄化するためである」
といふ考へ方です。
例へば、私が今どこかの職場で働いてゐるとする。仕事はルーティンであまり面白くない。職場の同僚も気の合はない人がゐて、憂鬱な気分になることも多いとします。
そんな仕事に一体どんな価値があるのか。さういふ考へになりがちですが、実はさういふところでないとできない浄化のチャンスがあるのです。
その職場だからこそ、「仕事が面白くない」といふ思ひがわく。「こんな人と一緒に働きたくない」といふ思ひもわく。
ところが、仕事が面白くないのは仕事自体の問題ではない。私が面白くないと感じるやうな仕事に出会つてゐるのです。「面白くない」と感じるのは私の中から出てくる感情であつて、その感情を体験するためにその仕事に出会つてゐるといふことです。
気の合はない同僚に出会ふのも、同じです。だからそのときに、私の感情を浄化する。「面白くない」「憂鬱だ」といふ無意識層から出てくる感情を手放し、新しい天的な感情が入つてくるスペースを準備するのです。
そのやうに考へると、今私がこの職場で仕事をしてゐることが実は感謝ではないかといふことに気がつきます。そしてもちろん、これは今の職場だけではない。私の家庭も、私の隣近所も、友人関係も、私がそこにゐるといふことが感謝になります。
その職場で、私は同僚の失敗を喜んで甘い蜜の味である「毒」を食べることもできる。しかし同じ職場で、最初はほろ苦くてもあとで栄養になる「感謝」を食べることもできるのです。

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