「原理」になる
どんなことがあつても揺れない。こゝに立つてさへゐれば永遠に自分を保てる。さういふ土台を、我々は誰でも心の中で求めてゐると思ふ。少なくとも私にはさういふ願望があるから、他の人もさうだらうと推測するのです。
ところが、そんな土台は本当にありえるのか。
実際、地面に足をつけて立つてゐると、
「この足場は固くて動かない。安心できる土台だ」
といふ気がします。
しかしその足場は地球であつて、その地球は不動のやうでありながら宇宙空間に浮かんでゐる。太陽の周りを超高速で周回してゐるし、その太陽だつて銀河系の中心の周りを周回してゐる。みんな動きに動いて、どこかの土台にしつかりと腰を落ち着けてゐるものなど、何一つないのです。
もちろん、地球は本当に願つてゐる土台の比喩であつて、言ひたいのは、私の心が安定して落ち着く土台のことです。この土台を「原理」と呼んでみませう。
これだと思へる人生の「原理」。それに沿つて生きさへすれば、私には何も心配することがない。さういふ「原理」があるでせうか。
哲学も宗教も、そしておそらく科学も、その「原理」を求め、探してきたわけでせう。そして、キリスト教はキリスト教なりに、仏教は仏教なりに、哲学も科学もそれなりに、探し当てたと思はれる「原理」を提示してきた。
「原理」を求めてきた人なら、それを見て
「あゝ、よかつた。これでやつと私は確固たる人生の足場を持てる」
と喜び、安堵する。
ところが、しばらくすると、その「原理」にも疑ひが生まれるのです。
「本当にこの『原理』は永遠に揺るがないだらうか? もしかして、揺るがないといふのは私の思ひ込みではないのだらうか?」
さういふ疑心が生まれてくると、再び自分の足場が揺れてくるやうに感じるのです。
しかしこゝで自分の心をよく観察してみると、揺れてゐるのは自分の足場ではなく、自分の心だといふことに気づく。
「原理」がどこかに独立して存在し、自分がその「原理」に合はせればいゝと思つてゐたのに、本当はさうではない。自分自身がどれほど「原理」そのものになれたか。実はそこに、自分が揺れる原因があつたのです。
自分が「原理」に合はせることと、自分が「原理」になること。この両者は似てゐるやうでありながら、その間にどんな違ひがあるのか。説明がむつかしいのですが、こんなふうに言へばどうでせうか。
イエスが
「あなたの敵を愛しなさい」
といふ「原理」を教へられた。
イエスを信じる人であるなら、その「原理」に合はせなければならないでせう。それが「原理」なのだから嫌ひな人を愛さうとする。これが「原理」に合はせるといふことです。
一方、自分が「原理」になるとは、敵だから愛するのでも敵でも愛するのでもない。我知らず、その人に愛が向かふ。そのときには、「敵を愛せ」といふ教へ(原理)は要らなくなるのです。
さうなれば、足場は要らない。私自身が、謂はば、自分の足場になるのです。どこに行つても、私は決して揺れることがない。
仏教の臨済宗が有名な公案で、
「仏に遭ふては、仏を殺せ」
といふのは、これに通じるやうな気がします。
仏の教へに従つて修業を積み、自分も仏にならうとする。そして遂に仏になれば(仏に遭ふては)、もはや仏の教へは要らない(仏を殺せ)。
しかしこれが難しいのです。容易には仏(原理)になれない。自分が「原理」になれない間は、どんなに立派な「原理」であつても、それが自分にとつて揺るがない足場にはなりえないやうに思ふのです。

にほんブログ村
- 関連記事
-
-
曲がつた松を真つ直ぐに見る 2022/08/13
-
聖人の怒り 2022/10/12
-
「意味の場」を変へる 2022/05/12
-
善人の怒り 2022/10/15
-
スポンサーサイト