曲がつた松を真つ直ぐに見る
禅は要するに、自己の存在の本性を見抜く術であって、それは束縛から自由への道を指します。我々有限の存在は常にこの世の中でさまざまの束縛に苦しんでいるが、禅は我々に生命の泉から直に水を飲むことを教えて、我々を一切の束縛から解放する。禅は我々一人一人に本来備わっているすべての力を解き放つのだということもできる。 (『禅』鈴木大拙) |
こゝで鈴木師が言つてゐる「禅」は、元々お釈迦様の教へであるから「仏教」と言つてもよく、さらには「宗教」と言つてもいゝでせう。
さうすると、宗教とは何か。
「自分の本性はどういふものかを悟つて、自分自身を一切の束縛から解放するものだ」
といふことになります。
今日我々が何気なく「宗教」と言ふと、まづ最初に「胡散臭い」といふイメージが湧くのかもしれない。
「ちよつと変はつた人、あるいは心の弱い人が拠り所を求めて頼るもの」
といふやうな宗教観です。
しかし宗教の側から言ふと、宗教なくして自己の本性を知ることはできない。また、本当に自己の解放を求めるならば宗教にいかざるを得ない。さういふことになります。
ところで、我々は本当に何ものかに束縛されてゐるのか。そしてもしさうなら、そこから解放されなくてはならないものなのか。その点を確認する必要があります。
社会運動家なら、
「マイノリティは偏見を受けてゐる。多様性を認めて、偏見の束縛から解放されなければならない」
と主張するでせう。
この解放のためには法律を変へ、社会制度を変革する必要があります。
確かにそれも束縛の一つには違ひない。しかし束縛にはいくつもの層があつて、法律や社会制度の変更は束縛の表層を取り払はうとするものです。
それに対して宗教は、束縛のもつと深層にアクセスしようとする。深層の束縛の正体とは何か。それは「自分が自分を束縛してゐる」といふ事実なのです。
そのことを考へさせてくれる一つの逸話を紹介しませう。
★★★
どこから見ても曲がりくねった松があつた。
そこに一休禅師が、
「この松をまつすぐに見たものに、金一貫文与へる」
と看板を立てた。
往来を通る人々はその看板を読むが、松はどうしたつてまつすぐには見えない。そこへ蓮如上人が通りかかる。
「蓮如さま、あの松をまっすぐに見えないでせうね」
と人々が聞くと、
「それではワシが一休の所へ行つて、金一貫文もらつてこよう」
と一休さんのもとへ蓮如上人が訪ねて行く。
ところが
「お前はだめだ。あの看板の裏を見てこなかつたのか」
と禅師に追い返される。
そこで不本意ながら、帰つて立て札の裏を見てみると、
「但し本願寺の蓮如は除く」
と書いてある。
人々は蓮如の周りに集まり、
「蓮如さま、この松をどうやつてまつすぐに見られたんですか?」
と、口々に尋ねる。
「そなたがたは、曲がつた松をまつすぐに見ようと曲がつた見方をしておるのぢやろうが、ワシは曲がつた松ぢやなぁ、とまつすぐに見たのだ」
★★★
この話は一休さん特有のとんち話に蓮如上人を登場させて面白く脚色したものでせうが、中身は単なるとんちではない。
我々は「曲がつた松を真つ直ぐな松に見ようとする」癖がある。あるいは逆に、「真つ直ぐな松を曲がつた松に見ようとする」癖もある。要するに、そのものを「あるがまゝ」に見ようとしないのです。
どうして「曲がつた松」を「真つ直ぐな松」に見るのか。頭の中に「松は真つ直ぐであるはず(べき)だ」といふ観念があるのです。つまり、松自体を見てゐるやうで、実は自分の観念を見てゐる。
この逸話で言へば「観念」が「自己を束縛するもの」です。
「私はかうあるべき」
「あの人はかうあるべき」
「世の中はかうあるべき」
かういふ観念が、知らず知らずのうちに自分自身を縛つてゐる。しかもその縛る力たるや、法律や社会制度どころではない。ほぼ無自覚であるだけに、この束縛を解くことは極めてむつかしいのです。
逸話の中では、一休禅師と蓮如上人だけが「自己を縛るもの」に気がついてゐた。そして、宗教の眼目はこれを取り払ふことだよと言ひたいのです。
ただ、鈴木師の言ひたいことは、それだけではない。
「生命の泉から直に水を飲む」
「我々一人一人に本来備わっているすべての力を解き放つ」
かういふ点についても、掘り下げてみる必要があります。

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