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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

善なる人に賞金を与へる

2022/08/10
訓読三昧 0
文鮮明
報償

今日の世の中の法は、制裁の法度です。堕落した世の中には、善に対する報賞法がありません。最後に、公義によって裁きを受ける日が来れば、神様は悪の法を片づけてしまい、善の法を立てるようになります。その時は、善なる人に賞金を与える時代になるのです。
(『真の父母経』文鮮明師)

本日の訓読中、この箇所に出会ひました。とてもインスピレーションに溢れる話だと思ふ。

『原理講論』には「報償」といふ言葉が出てきます。「償」とは「償ふ」といふ意味で、誰かに被害を与へた場合、それと同等の条件で償ふことを「報償」といふのです。

「報償」の最もよく知られた例は、旧約聖書にある
「命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足…をもって償はなければならない」
といふモーセの律法でせう。

ところが文先生が仰るのは「報償」ではなく「報賞」。「報償」は悪に対して支払ふ代価であるのに対して、「報賞」は善に対して支払ふ代価です。

詐欺をした。人を殺めた。横領した。さういふ悪がなされたなら、それは必ず埋め合はされねばならない。マイナスになつたものは、せめてゼロに戻さないと被害者は困る。

マイナスをゼロに戻さうとして執行するのが「制裁」です。昔はそれが「命には命」であつたが、今ではほとんどが「懲役」か「罰金」になつてゐます。

いづれにせよ、これまではほとんどの法が「制裁」といふ発想を土台とした「報償」を中心としたものであり、「報賞」を取り入れる法はほとんどなかつた。なぜでせうか。

我々の目(意識)が「悪を制裁する」ことにばかり向かひ、「善を称賛する」ことに向かはなかつた。それが最も根本にある理由ではないかと思ふ。

以前
「ビジョンなき正義の味方とよく笑う悪の組織」といふ記事を書いたことがあります。

バイキンマンが悪だくみを始めるまで、アンパンマンは現れない。モリアーティ博士の悪だくみが表に出始めてやつと、ホームズが動き始める。怪獣がビルは橋をだいぶ壊してから、ウルトラマンが飛んでくる。

正義の味方や名探偵の活躍は颯爽として心強いものではあるが、悪が暴れるまで彼らは一体どこで何をしてゐたのか。マイナスをゼロにする者としてはヒーロー的な活躍をするものの、日頃からプラスを創る人たちには見えない。

主体はいつも悪であつて、悪がなければ善も現れない。我々の基本的なマインドセットがさうなつてゐるやうです。

基本設定がさうなので、法律も「悪を制裁する」ことが基本となり、マスコミの報道などもその9割以上は「悪を見つけて暴露する」といふやり方に終始してゐるやうに見える。教育現場でも、ややもすると虐めなどの悪を押さへつける方向に力を奪はれやすい。家庭の躾も、子どもが悪さをしたら叱る罰するといふ場合もあるでせう。

これからは、悪に対しては「減償法」、善に対しては「増賞法」。どんな善にどれほどの賞金を出すか。そこに意識を向けるやうに、我々一人一人が変はるのがいゝと思ふ。

世の中がだんだんそのやうに変はれば、善なる人は賞金だけで生きていけるかもしれない。

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