「わだかまり」をほどく
あなたの家族、知人、友人、そのほか、あなたがこれまでに親交をもつた人たち。さういふ人たちの写真を目の前に並べて、それを眺めて見るとしませう。
その一人一人に対して、あなたの中にはどんな思ひや感情が湧き、どんな記憶が甦るでせうか。
このとき、あなたが自分の中に体験するものこそ、あなた自身です。いろいろな人の写真に写つたあなた自身の姿です。
これを
「復帰摂理歴史の縦的な蕩減条件の表示」
とも呼びます。
あなたが自らの内に抱へる悠久の歴史の内容があります。それはふだん、あなたの奥に畳み込まれて意識されることがないのですが、縁にふれて立ち上がつてきます。その人の写真を見る、といふのがその縁の一つです。
ある人の写真を眺めたとき、あなたの中に無上の慕はしさが生まれるでせうか。それとも反対に、目をそむけたくなるやうな嫌悪感が生まれるでせうか。
どういふ思ひが湧くかは、あなたとその人との間での体験によるのですが、それによつてあなたの中に蓄積された思ひの記憶が「縦的な蕩減条件」です。
あなたに意識される思ひこそ、
「あなたの中には、かういふ蕩減問題が潜んでゐますよ」
と教へてくれるものです。
教へる目的は、それを清算(解決)しなさいといふことです。
しかし思ひが湧いてきたとき、大抵は
「あのとき、あんな嫌なことがあつたな。今でも許せないな」
と、その思ひを肯定しながら反復することで終はつてしまふ。
これでは蕩減問題は再び記憶の奥に潜り込み、次の縁にふれて出てくるときを待ち構へることになります。
蕩減問題を清算(解決)するとは、
① 受け入れられなかつた人を受け入れること、であり、その次に、
② 受け入れたその人と愛の関係を結ぶこと、です。
受け入れられなかつたといふことは、その人との間に「わだかまり」があつたといふことです。その「わだかまり」を自分の手にぎゆつと握りしめて離さなかつたので、その手をほどきます。
「ほどく」ことのできる人を「ほとけ(仏)」と言ひます。
「許せない」とか「好きになれない」などといふ思ひの執着を、静かにほどきます。「許さう」とか「愛さう」とか、力む必要はありません。その人の写真を見ながら、「許せない」といふ思ひを静かに受け止めて流すだけでいゝ。
以前の記事「潔い愛」で書いた通り、「愛」と「愛情」は同じものではない。「愛情」は特定の人から特定の人へ、特定の行為を通して流れるものです。一方「愛」は電気やガソリンのやうな純粋なエネルギーです。正しくスイッチ・オンしさへすれば、必ず原理通りに流れる。
だから「愛さう」とする前に、「愛」を流すことを考へる。あなたとその人との間に「愛」を流さうとするなら、あなたは流れるルートを開き、正しくスイッチ・オンすればいゝだけです。
しかし、1回だけではうまくいかない。毎日繰り返してみます。毎日その人の写真を眺め、毎日「ほどく」作業を繰り返します。直接会へる人なら、ときどき会つて、自分の中にどんな思ひが湧いてくるか確かめます。
「復帰摂理歴史の縦的な蕩減条件」などといふとあまりに大仰で悲壮感が漂ふので、もう少し日常的で小さなところから始めるのです。

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